SSブログ
-| 2004年12月06日 |2004年12月07日 ブログトップ

Ah! ca ira, ca ira, ca ira! [オペラの話題]

「RRのめずらしい歌」に「サ・イラ! Ca Ira!」


エッフェル塔はフランス革命100年記念に、パリ・オペラ座(バスティーユ)は200年記念に建てられた。.....んですって!

「Ca Ira」はフランス革命に作られたシャンソンで、「Ah! ca ira, ca ira, ca ira!(嗚呼、いけるぞ、うまくいくさ)」という印象的なリフレインがある。国歌にならなかったのは歌詞の最後の行が「Les aristocrates on les pendra!」、つまり「貴族を絞首刑に!」と過激だからだ。フランスの民衆は「アァ、サ・イラ、サ・イラ……」と踊り狂って革命に参加したといわれている。

ああサ・イラ サ・イラ うまくいく
人民はこの日たえずくり返す
ああサ・イラ サ・イラ うまくいく
反乱者どもにかかわらず すべては うまくいく
とまどう敵は足踏みさ われらはうたおう 喜びの歌
              
                   (河出書房新社「図説フランス革命」より)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
フランス革命のうたで、有名なのが「Ah! ca ira, ca ira, ca ira! (嗚呼、いけるぞ、うまくいくさ)」。ca ira(サ・イラ)は、ca marchera, ca fonctionneraで、ラドレLadre作詞、ベクールBecourt 作曲だが、これも歌詞は激しい内容で、「les aristocrates a la lanterne」などと平気で歌う。アリストクラートは貴族階級。ランテルヌは街灯だが、高い街灯で「絞首刑」という意味。これが、国歌にはならなかったが、民衆は「アァ、サ・イラ、サ・イラ」と踊り狂いながら革命に参加したしたらしい。翻って幕末の日本では、今村昌平の映画にあるように「ええじゃないか」が西からお江戸まで押し寄せた。しかし、幕府の役人や諸侯を血祭りにあげるようなことはなかったようだ。民衆のフラストレイションの表れであっても、明確な思想がそこにはなかったからであろう。「ええじゃないか」を薩長が指導したとも考えられない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

バスティーユ襲撃から1年後、1790年7月14日にシャン・ド・マルスで祝典が大々的に行なわれた。いまはエッフェル塔が建つこの広場が選ばれたのは、流血や暴動の場でなかったからだった。
 セーヌ右岸のシャンゼリゼとともに、左岸のこのあたりも市街化がまだ進んでいなかった。そこで、祝典=連盟祭の前に無数の市民達が動員され、会場となるシャン・ド・マルスの整備に当たった。その際に、国民的なダンスであるカルマニョールを輪になって踊ったり、シャンソン「サ・イラ」(うまく行くさ)を歌う人たちもいた。後に「貴族を街灯に吊るせ」と言う過激な歌詞になるが、ラドレが書いたものはそこまでは言っていない。

関連記事:《アンドレア・シェニエ》で使われています。

nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(1) 
共通テーマ:音楽
-| 2004年12月06日 |2004年12月07日 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。