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(3)ライモンディ、16年ぶりにパリ・オペラガルニエへ [RRとパリ・オペラ座]

"La Forêt" 事件の裁判の結果については、1999年のジュネーヴでの公演(リサイタル)の時のインタビュー「ライモンディ、13年ぶりにジュネーヴに帰る!」で、ちょっと触れられています。
「調停は複雑な内容で、ライモンディには厳しいものであったようですが、それでも、彼は、自分は正しかったと信じている・・・」仏語ですので、怪しいかもしれません。
ところで、パリ・オペラ座にも、1989年7月の「バスティーユ・オペラ座柿落しガラコンサート」以来出演していません。
もちろん世界各国の劇場で活躍していますし、映画の撮影もありましたし、パリ・オペラ座に出演しなくても不思議でも何でもないのですが、でもなにかあるのではないかとかんじました。
案の定、なんとジュネーヴ大劇場のインテンダントだったユーグ・ガルが、1995年からパリ・オペラ座(バスティーユ、ガルニエ)のインテンダントに就任、2004年7月まで、足掛け10年にわたって、このポストで、辣腕をふるっていたのです。
意図したことか偶然かはわかりませんが、とにかく「ライモンディ、16年ぶりにパリ・オペラガルニエへ」なのです。
7月のエクサンプロヴァンス音楽祭のシェロー演出"così fan tutte"が、9月からパリ・ガルニエでも上演されます。
シェローは扮する俳優をみてから役の性格を決めるというのが持論のようですから、どのようなドン・アルフォンソになるのか楽しみです。(キャンセルしないように、元気で出演できるように祈っています)
ライモンディは昔から、モーツァルト三部作「ドン・ジョヴァンニ、フィガロの結婚(伯爵)、コジ」にはこだわりがあります。彼によれば、「伯爵はドン・ジョヴァンニの父であり、ドン・アルフォンソはよみがえった(土にかえった)ドン・ジョヴァンニなのだ。」そうです。

予定は、ニュース&公演予定にアップしました。
写真)"così fan tutte"舞台


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(2)ライモンディ、16年ぶりにパリ・オペラガルニエへ [RRとパリ・オペラ座]

「ドン・ジョヴァンニ」「ファルスタッフ」の次にユーグ・ガルが企画したのは、ライモンディのための新作オペラでした。作曲はロルフ・リーバーマンに依頼しました。
ライモンディは、この新作を勉強するために1986年7月は空けていましたが、楽譜を受けとることはできませんでした。リーバーマン作曲の"La Forêt" (原作オストロフスキー「森林」)の楽譜が彼の元に届いたのは12月、すでにボローニャで「アルジェのイタリア女」の公演がはじまっていました。
結局、ライモンディは、1988年3月のリハーサルがはじまる三日前に「できない」ということで、キャンセルしたのです。彼のために書かれた"La Forêt"をどたんばでキャンセルしたことと、それに続く長い裁判沙汰により、ライモンディは、新しい役の習得が遅いという悪い評判までたてられてしまったのでした。
"La Forêt"は、ジャン=フィリップ・クルティスがライモンディの後任を務めつつがなく上演されました。
よくある直前キャンセルのようにもおもえますが、どうして裁判沙汰にまでなってしまったのか? 契約不履行ということでしょうが、裁判沙汰になるのが普通なのでしょうか?

ライモンディがこのことについて話しているインタビューの一部を転載します。
「ライモンディは、彼のために特別に書かれた役、に関してリーバーマンとの関係が壊れたことで、傷ついたことを認めている。1986年の7月はそれを勉強するためによけてあったのに、ボローニャでの「アルジェのイタリア女」デビューした12月まで楽譜を受けとれなかった。ジュネーヴで7月に、楽譜が間に合わなかったら、辞退しなければならないことになる恐れがあると警告し、1月にJanine Reiss(大劇場の音楽研究主任)に私の問題を全部話した。私はまだやるつもりだった。3月のはじめリハーサルがはじまる三日前、できないとわかった。病気だと言うべきだった。それでも、Ostrovskyを読んだとき、リーバーマンの音楽の中にあらわれる性格に対して※Malfortuneについて非常に異なる考えを持ったと言わなければならない。 リーバーマンとユーグ・ガルの見解を理解したが、わからないことは、この出来事について彼らがやった宣伝だ。やりすぎだった。
彼は覚えるのが遅いことを認める。私は技術屋ではないし、人物像を創造しないで、音楽を覚えるのは難しいと思う......(1994年5月Andrew Clark)


写真)左リーバーマン、見えませんが、右にライモンディがいます。1981年ライモンディの特別番組のゲストで出演
※ロルフ・リーバーマン(スイス、作曲家 1910ー1999)1973年から1980年までパリ・オペラ座のインテンダン。その間、ライモンディもパリ・オペラ座で活躍する。ロージー監督『ドン・ジョヴァンニ』はリーバーマンの企画である。
※Malfortune:ライモンディが歌うはずだった役名。原作では《旅回りの悲劇役者ネスチャスリーフツェフ》
※原作「森林」のあらすじ
ロシアの劇作家オストロフスキーの5幕の喜劇。1870年作。翌71年初演。
森林の領地で安逸な生活を送る女地主グルムイシスカヤのところに、旅回りの悲劇役者ネスチャスリーフツェフ(不幸者の意)が路傍で知り合った喜劇役者スチャストリーフツェフを連れてやってくる。悲劇役者は15年前に家を出された甥だった。 女地主の偽善と怠惰に対して、演劇に情熱を燃やす青年が対照的に描かれている。
「演劇 映画テレビ舞踏オペラ百科」平凡社より


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(1)ライモンディ、16年ぶりにパリ・オペラガルニエへ [RRとパリ・オペラ座]

なんと16年ぶりにルッジェーロ・ライモンディがパリ・オペラ座(ガルニエ)にコジのドン・アルフォンソで復帰します。
1970年代後半からドン・ジョヴァンニとしてパリでは大人気だったこともあり、それから30年たったいま、彼も64才、ドン・アルフォンソで復帰というのもなかなか心にくい演出ですね。

「復帰」と書いたのは1989年7月13日「バスティーユ・オペラ座柿落しガラ スター歌手10人によるフランス・オペラアリアのコンサート」以来、パリ・オペラ座に出演しなかった、できなかった? からです。
原因は、どうやら、ユーグ・ガルとのある事件に関係があったようです。

ユーグ・ガル(Hugues R Gall)は、パリ・オペラ座の黄金時代を築いたロルフ・リーバーマンの右腕として知られた人物で、彼が1980年にパリ・オペラ座のインテンダントを退任するのと同時期に、ジュネーブ大劇場のインテンダントに就任します。
彼は、1980年9月、自分の任期のはじめにあたって、モーリス・ベジャールとライモンディを「ドン・ジョヴァンニ」の新プロダクションに招くという、どうころんでも成功間違いなしの実験的企画の公演でシーズンを開幕しました。パリ・オペラ座時代の人脈を最大限に活用し、凄腕をふるったわけです。
1986年には、ライモンディ初役の「ファルスタッフ」も上演されます。ところが、1987年に事件がおこります。《続く》

写真上)バスティーユ・オペラ座柿落しガラ、フィナーレで国歌斉唱
写真中)ジュネーブ大劇場
写真下)ベジャールとライモンディの「ドン・ジョヴァンニ」カーテンコール (キャスト詳細)
指揮者は、Horst Steindirige、Horst Stein どちらが正しいのでしょうか?ご存知の方、よろしくお願いします。

   

実は、以前からパリ・オペラ座にいっさい出演しなくなったのはどうしてかと疑問におもっていました。今回、1994年のインタビュー記事を読んで、ジュネーヴ大劇場の事件が原因だとわかり驚きました。ヨーロッパでは、周知の事実のようですが、私は、全く知りませんでした。
インタビュー記事をもとにネットで調べた範囲での推測ですので、間違い等ありましたらお知らせ下さい。


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