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毒舌評論家ロドルフォ・チェレッティとR.ライモンディ(2)出会いとその後 [オペラ関連書籍&雑誌]

2006-11-28の記事でロドルフォ・チェレッティ(1917〜2004.10)の略歴と著書をご紹介しましたが、R.ライモンディとの関係を雑誌のインタビューでご紹介します。

歌うこと、奇妙な職業:非凡なバス歌手とキャリアの初めに知り合った情け容赦ない評論家との間の友情のインタビュー
1998年4月、ロドルフォ・チェレッティのインタビュー記事
Giacomo Puccini: Tosca
 時に、奇妙なきっかけで、真の友情が生まれる。私とルッジェーロの間の友情は、1979年に、※(1)カラヤンが《トスカ》をベルリンでレコーディングするためにスカルピアとして彼を望んだ時にはじまった。ライモンディは、それまで、常にバスとして歌っていたが、カラヤンに、ノーと言うことはできなかった。歌手にはよくあることだが、承諾した後で、迷いと恐れに襲われた。だが、ライモンディの不安に誰が相談にのったのか? それは、数カ月前に、フィレンツェ5月音楽祭《シチリアの晩鐘》の公演の際に、酷評したある評論家、つまり、悪名高いチェレッティ、私だった。私が、彼に会って、最初に尋ねたことは、「高音に関して私たちはどうしますか?」ということだった。 ライモンディは、びっくりするような自然な高音で答えた。それは、バスとしての音ではなく、バリトンにおいてもまれなものである。ほとんど一ヶ月の間、毎日録音テープに記録し、一音一音を聴いて、この《トスカ》のために準備した。こうして、私たちは、親しくなった。「いくら、あなたにお支払いすればいいですか?」と彼が尋ねた。「何もいりません。もし報酬を期待するならば、私は、声楽の教師になってしまうでしょう。従って、誰も払ったりしません。それに、あなたのような歌手と働くということが、私になにも教えなかったとあなたは思いますか?」 
 その後も私たちは度々会った。シモン・ボッカネグラやドン・ジョヴァンニの準備をするために。おそらく、なんだったか忘れたが、他のオペラの準備のためにも。
 数年前、ライモンディは、ボローニャ歌劇場でロッシーニの※(2)《モーゼ》の主役を演じた。私は、偶然この町にいて、公演を見に行った。当然、最後にライモンディと会った。「ロッシーニはあなたに有益でしょう。」と私は言った。「いつもではありません。」と彼は答えた。「ところで、テノールについてどうおもいますか?」と私に尋ねた。「高音も不足してますし、演奏家としても、月並みでぱっとしませんね」「全くおっしゃる通りです」と彼は答えた。「だから、彼はあなたと一緒に勉強するでしょう」「冗談でしょ、本当に?」「本当です。ぜんぜん冗談ではありません。あなたにぜひとも頼みたいのです。」  ー続くー

※(1)カラヤンとの《トスカ》のレコーディングのために、チェレッティと完璧に準備して、カラヤンのもとに行ったわけですが、一週間連日6時間のピアノリハーサルというハードスケジュールの上、カラヤンはなかなか満足せず、ライモンディもいい加減いやになって、もう、やめます....と言ったとか....そのへんの経緯は、こちらでライモンディ自身が語っています。
新しい役の準備は、あっちこっちの公演をこなしながらですから、非常な努力が必要ですね。カラヤンの伝記だったとおもいますが、初役なのにちゃんと準備をしてきていない歌手がいて、困って、交代してもらった話もあったような.....売れている歌手ほど、人一倍大変ということですね。

※(2)ボローニャ歌劇場の《モーゼ》は、1990年の公演のことだとおもいます。ここで話題になっている、テノール君は、ラモン・ヴァルガスということですね。リハーサル風景の一部がこちらで見られます。

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yumemi

チェレッティさんって、あの方ですね(バスティアニーニを『大声だけの歌手でヴェルディには使えない』と酷評した)。 でも、確かにそこまで酷評するという事は何か理由があってでしょうから面白くないのを超えて、じゃあどうすればいいの?と聞いたら逆に歌手に取っては益になったかもしれませんね。 ライモンディのスカルピアは秀逸だと思うけど、そんな裏話があったんですねえ。
by yumemi (2006-11-30 18:18) 

keyaki

yumemiさん
>『大声だけの歌手でヴェルディには使えない』

これは、チェレッティ氏のどの著書に書いてあるのでしょうか。著書ではなく、公演の個別のレビューかしら。

"Il canto"という著書では、初期ロマン派の作品を歌うために不可欠なmezza voceができない....というような記述があるようですね。
でも、バスティアニーニは、カラヤンとのレコーディングも多いようですから、できないということはないとおもいます。カラヤンは、大きな声は好きではなかったようですから。
ライモンディによれば、
『カラヤンは弱音で歌う勇気をもつべきだと言いました。フォルテがとてもはやっているときにだれもそんなことはいいません。さらに、弱音はその上演に声の色彩の全スペクトルをもたらすためにとても大切なのです。 しかし、今日、やわらかい音色を聞くことはあまりありません。多くのディレクター監督はこれでいいと考えています。今日の若い歌手たちから、ベルカントの技術がほとんど聞けないということは疑いのないことです。』と語っているように、実際の公演では、大きな声を期待している観客が多いことも事実のようですから、なかなか難しい問題ですよね。大きい声を評価する人も多いということでしょうから。
by keyaki (2006-11-30 23:17) 

yumemi

これは伝聞で、マリーナ・ボアーニョ著のバスティアニーニの伝記に書いてあったのです。
それをチェレッティさんが言ったとは明記していないのですが、高名な批評家とある事から、ネットで調べたら、英語のオペラ・フォーラムにそう書いてありました。

でも、あの当時のオペラ界は、特に、とにかく大声を出す事、その声で劇場を満たすという事に関しては異常な状態であったと思います。 オペラ歌手なのだからちゃんと聴こえなければ意味はありませんが、必要以上に時には楽譜を無視してまでもフォルテで歌うというのはやっぱり良いとは思えないのです。当時の人気歌手、たとえばデル・モナコなんかはその代表ですね。 でも、彼にしても、バスティアニーニにしても、歌手稼業は人気稼業でもありますから、やっぱり観客の反応は大切だったでしょう。 バスティアニーニも、もう少し長生きしていたら、実際にmezza voceを劇場でも使う機会に恵まれたかもしれませんがーー。
by yumemi (2006-12-01 01:44) 

euridice

チェレッティ氏のことは何も知りませんが、オペラと大声は切っても切れない関係ですね。とりあえず、聞こえなければ話にならないのですから。ヘルデンテノールなどというのはこの最たるもので、とにかくオーケストラをこえて響き渡る大声がなければいけないということのようです。その中でペーター・ホフマンは、弱音を意識したヘルデンテノールのひとりということです。

とりあえず見つけることができた、弱音に関する彼の意見です。
「聞き耳をたてて聞き入るのは、わかりにくいなんてそんなばかなことはない。この世で最も重要なことは、真っ赤な声帯はいらないということだ」
「ワーグナーのアリアもリリックな声で弱音を際立たせることができる。とりあえず、目下のところは、強く練習している」
「ヘルデンテノールとは、実際何だろうか。劇的な役を歌うテノールだろうか。弱音で歌ったら、もうヘルデンテノールではないのだろうか。なんだかロマンチックにきこえる伝統的な名称だが、ヒロイズムとはほとんど関係がない」

ある評論家は「(彼は、声に)陰影つまりニュアンスをもたせる才能、及び、発声をコントロールすることよって、一息の中で、フォルテからピアニッシモまで、声を落とすことができる」と述べています。
by euridice (2006-12-01 09:11) 

助六

チェレッティがバスティアニーニについて触れている具体的箇所を見つけ出す余裕がありませんが、確かに彼はバスティアニーニのヴェルディ歌唱に否定的だったと思います。
ただ、彼がバスティアニーニに対して批判しているのは、単に大声を張り上げるのがイカンと言っているのではなく、特にレガートの旋律的造形に関して「ヴェリズモ的な表情の誇張が目立ちすぎる」と言う意味だと思います。
ヴェリズモに由来する両大戦間の歌唱伝統をなお引きずっているバスティアニーニのヴェルディ歌唱にある程度そうした傾きがあるのは、私も事実と思いますが、個人的には、彼のヴェルディ歌唱は、完全にヴェルディ様式が許容する範囲内で、チェレッティの批判は例えばゴッビにより適応すると考えます。少なくとも現在のオペラ界に彼以上に「ヴェルディ様式」を正確に体現しているバリトンさんがいるのかは大いに疑問です。
私はもちろんバスティアニーニの実演に接することはできませんでしたから、自分の印象に最終的な確信は持てませんし、どうしても効果が強調される傾向がある舞台上演では、尚更そうしたリアルな誇張と吼え歌が目立ったと言うことは、あるかも知れませんけれど。
逆に、バスティアニーニのロッシーニやドニゼッティなど「ロマン派ベルカント」歌唱については、私もチェレッティの批判とどう方向で、今となっては様式的に過去のものになってしまったという印象を持っています。

チェレッティの論旨は、「ヴェルディは、心理的高揚が要求するドラマの核心箇所でも、まず旋律をしっかりと造形して『美しく』歌われるべきで、そこにリアルな表情の誇張、つまりヴェリズモの論理を持ち込んではならない」ということに尽きます。この主張自体は全く正しいにしても、どこからが「ヴェリズモ的誇張」になるのか、「ヴェルディの声楽的アイデンティティ」に合致する歌手は誰なのかといった具体的判断には、当然相当個人的裁量が忍び込む余地があるはずです。

チェレッティの各役の声楽的アイデンティティをなるべく明確に確定しようとするアプローチは、多くのことを教えてくれるものではありますが、
1)声楽的アイデンティティの厳密な規定からする判断は、現実の歌手の声の多様性と創造性を見失わせる危険性も含んでいる。彼のバスティアニーニ評はそうした例かも知れない。もちろん50年代のヴェルディ歌唱の全体的傾向を考えれば、チェレッティには、バスティアニーニに対してさえもこうした批判を提出することで、当時のヴェルディ歌唱の通俗的理解を改めようとする意図もあったかも知れません。
2)確定された声楽的アイデンティティの、具体的歌手への適用には主観性の介入する部分が多く残る。
「アミーナは、coloratura leggeroではなく、coloratura di forzaによって歌われるべき」という原則を認めるとして、カラスの歌唱はforza、でデヴィーアやドゥセの歌唱はleggeroだということにはまあ異論はないでしょうが、グルベローヴァやロストなどはどちらなのかと言うのは様々な意見がありうると思います。
チェレッティのアプローチには、多くのことを勉強させて頂きましたが、個人的に少し関心が薄れてきているのは、こうした僅かな疑問を感じるからかも知れません。
by 助六 (2006-12-01 09:31) 

yumemi

ヴェリズモへの傾きはあの当時多くの歌手に見られたものだったと思います。 むしろ、そうする事が求められていて、そうしなければ非難された位であったと。 そして、バスティアニーニはリアルな表現をしないので無表情と言われていたのだと理解していました。 今、『ドン・カルロ』を聴き比べていますが、確かにそうした批判故でしょうか、彼も死の場面などの声音がハスキーに変わるほどだいぶ感情を込めて歌われているバージョンと、それよりは旋律の美しさを生かした歌い方と2種類していますね。でも、バスティアニーニの歌い方が当時の他の歌手と比べて特にヴェリズモだったとは私には思えません。 ロッシーニやドニゼッティに関しては、あの美声で歌ってくれて嬉しいというレベルです。 特にロッシーニに至ってはライブアルバムを聴いて愕然とし、思わず、その後にジェルメッティ指揮の現代のものを聴き直しました。 歌い方そのものに関しては時代に束縛されていて当然が、それでも私は彼のアルフォンソ王は良いと思います。 あくまでもコレクターズ・インタレストの見地からですけれども。もう少し長生きしていてくれて、当時彼を縛っていた時代の束縛から少し解放されたら、また違った面を見せてくれたかもしれないと思うからです。
by yumemi (2006-12-01 20:33) 

たか

keyakiさんこんばんは
このカラヤンのトスカはコペントガーデンの引越し公演で東京でカバラドッシを歌っていたカレラスがベルリンで録音してから東京にとんぼ返りしたことが当時FM週刊誌にも出ていました。皆さん相当ハードなスケジュールでカラヤンに合わせたのでしょうね。
東京のトスカ(相手はカバリエ)は当時テレビで放送されたようなのですが残念ながら見ていません。一度見てみたいのですが。意外なことにカレラスのカバラドッシって映像がないですよね。
by たか (2006-12-02 00:14) 

keyaki

euridice さん、
大きな声 で歌わなければオペラ歌手じゃない、とかの刷り込み現象というか、潜在意識というか、偏見のようなものは、すごくありますよね。カラヤンがライモンディに「弱音で歌う勇気を....」と言ったのが、すべてを語っているような気がします。
最近の大編成のオケとか、ピッチの問題とか、歌手には、受難の時代だと、若い歌手が数年でつぶれちゃう原因もそのへんにあるとか、ライモンディなんかも言ってますね。

オペラは鑑賞する側の意識も千差万別で、まったく話が噛み合ないこともありますしね。まあ、そういうのが面白いともいえますけど。
by keyaki (2006-12-02 11:31) 

keyaki

助六さん、
バスティアニーニと同世代のバリトンというとすぐには思いつかないのですが、やはり、早世したということで、別格なんでしょうね。
ライモンディが、ミラノでちょっと勉強していた時に知り合ったバリトンは、ダッデイ、パネライ、ブルスカンティーニ、カップッチッリとかですけど、この中にバスティアニーニがいてもいいような気がするんですけど、こういう歌手仲間とは無縁だったのかしら? とか、興味があります。
by keyaki (2006-12-02 11:59) 

keyaki

yumemi さん、
フローレスのレパートリーのオペラから、一気に、全く別のオペラに発展していって、楽しまれているようですね。
私も手持ちのスカラ座のヴェルディという6枚組CDは、ほとんどバスティアニーニですので、もう一度聴いてみようかな、と思っています。このCDをはじめてきいたときは、出演者を意識してませんでしたので、ずいぶん、暗くて太い声のバリトンだとおもいました。バスからバリトンに転向ということですから、声質的には、バスなんでしょうね。
ライモンディなんか、バスとはいえ、非常に明るい、だから嫌う人も多い、ので、バスティアニーニと共演していたら、なんか変なかんじだったかも....なんて想像しちゃいました。
by keyaki (2006-12-02 12:20) 

keyaki

たかさん、
カレーラスのカバラドッシの映像って、ないですか。ドミンゴもパヴァロッティもあるのに、残念ですね。
カレーラスって、映像とかに厳しいタイプなのかも、自分が納得できないのは残したくないとか.....
パルマのヴェルディガラもカレーラスのOKがなかなか出なくて、日本のTVでは、抜粋になったとかのウワサもありましたよ。でも、あちらではDVD出てましたので、ちょっと話が違いますね。

カラヤンの録音は、別取りっていうんですか、そういうことをしないので、歌手さんたち公演の合間をぬって、レコーディングにかけつけたようですね。
たとえば、トロバトーレで、ライモンディは脇役のフェッランドでしたが、二言三言のために、スペインの劇場からカラヤンの自家用ジェット機で、かけつけるというスケジュールだったそうです。
by keyaki (2006-12-02 12:35) 

たか

>カレーラスって、映像とかに厳しいタイプなのかも

私もそうなのではないかと思っています。病気のブランクを考慮しても少なすぎます。もうだいぶ前ですが、ロンドンからフレーニ/カレーラスのフェドーラを衛星生中継すると予告されていて深夜まで起きて待っていたのですが上演されたのにテレビ中継はキャンセルでした。(フレーニはスカラとメトでドミンゴともフェドーラを録画しているのでフレーニ側の問題だったのかもしれませんが)

以前海賊盤が出ていた78年のスカラ座の運命の力もぜひDVD化してほしいものです。他にも83年のウイーンのトゥーランドットと81年のパリの仮面舞踏会は映像が残っているはずなのですが....
by たか (2006-12-02 20:32) 

助六

>バスティアニーニと同世代のバリトン

ヴェルディ歌ってた同世代のバリトンというと
イタリア人では、
カペッキ
セレーニ
グエルフィ
プロッティ あたり。
外国人では
マクニール
エヴァンズ
フィッシャー=ディースカウ あたりでしょうかね。

ホンのちょっと上の世代では、
イタリア人: ゴッビ
        コレーナ
        タッデイ
        サヴァレーゼ
外国人:   ウォレン
        メリル でしょうかね。

こう並べてみると、やはりウォレンとバスティアニーニあたりが、戦後のヴェルディ歌唱をアクの強いものからよりスタイリッシュな方向に変えていった最初の人たちだったのではという気がしてきました。
by 助六 (2006-12-03 07:58) 

keyaki

助六さん、こうして名前をあげてみると、共演していないのは、フィッシャー=ディースカウくらいですし、上の世代でもタッデイ、メリルとは共演してますね。
by keyaki (2006-12-03 09:41) 

yumemi

確かに、バスティは声が太い! というか低音に余裕があり、倍音が豊かなのです。普通のバリトンはもっと軽いですもんね。 私は彼の声に慣れちゃったのでなんだか他の人のを『軽いなあ〜』と思ってしまうのですが、普通は逆ですよね。早世したために伝説になった面も大いにあると思いますが、あのわざとらしい50年代にあっては歌い方(それと役作りも)がとてもモダンだったのではないかと今でも思っています。 ただ、このままじゃ一生『トロヴァトーレ』や『ドン・カルロ』の実演に行く気がしなくなると思い、ホセ・クーラとホロストフスキーの組み合わせのDVDを買いました^^;;。 

フローレスとは、うーん、考えてみれば両極端な方向ですねえ。

ライモンディはあのフローレスと一緒のマドリッドのドン・バジリオの印象が強くて、あれ以来他の人が歌うドン・バジリオを受け付けられなくなってしまいました。 バスティとの共演ですか。 それは興味深い聴きものかも? ただ声質は軽くても、音程的にはバスのライモンディの方が低いですよね。 バスティは並のバスと一緒だとどっちがバスなのか時々判らないときがあります。その中で、違いがはっきりしていたのはチェーザレ・シピのフェリペ2世とバスティのロドリーゴの2重唱でした。
by yumemi (2006-12-03 12:36) 

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