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2.第1章:召命(幼年期2〜6才) [ L.Magiera著:RR]

1944年1月29日のボローニャ大空襲で、父チェーザレは妻と息子3人を連れて、ヴィディチアティコのおじさんをたよって疎開します。ルッジェーロ、2才の時です。

幸運にも、アペニーノ・トスカナーエミリアの心地よい土地ヴィディチアティコでは、何の心配もなく遊ぶことができた。そのことは、子供の思い出の中に残った。この年、幼いルッジェーロは、その土地の農民の子供達とも仲良くなり、心地よいボローニャの丘陵地帯の香りと色彩の中で平穏に過ごした。

 根っからの音楽愛好家のチェーザレは、このような非常事態でさえも古い蓄音機を持って来ることを忘れなかった。そして夕方には、ヴィディチアティコの山荘で、山岳地帯の静けさの中、エンリコ・カルーソー、ベニアミーノ・ジーリ、アウレリアノ・ペルティーレの高音とティート・ゴッビ、ボリス・クリストフ、エツィオ・ピンツァの声のつやのある響きを聴いた。

 チェーザレは、最初の二人の息子達、ラファエッロとロベルトがほとんど音楽に関心を示さなかったのでがっかりしていたが・・・・二人の息子達は、音楽とは完全に異なった道に進み、二人ともその道の最も有能かつ有力な専門家になっている・・・・ルッジェーロが、蓄音機から出て来るメロディーに心をとらえられて夢中になってまねをしていることに気づいた。
 数ヶ月後、このちっちゃなルッジェーロは、曲と歌手をたちどころに見分けることが出来た。ボリス・クリストフとチェーザレ・バレッティは、彼の大のお気に入りで、”Ella giammai m'amo”(ドン・カルロ、フィリッポのアリア)と "Pourquoi me reveiller"(ウェルテル) を飽きもしないで聴いた。
 戦争の嵐の中でも、ヴィディチアティコで暮らしたこの時期は、ライモンディの家族にとって幸福のオアシスだった。

 しかし、長くは続かなかった。1943 年9月8日の後、イタリアは、本当に大混乱の中にあった。先に同盟を結んだドイツ側で戦った人、武器を捨てて姿を隠した人、ドイツ軍と戦ってアメリカ軍の前進を支援するパルチザンの団体を強化することを選んだ人がいた。
 残念ながら解放の戦いは、それ自体正しいかもしれないが、ムッソリーニはイタリアを絶望の深い淵に投げ入れたし、またヒットラーによって行われたユダヤ人排斥の残虐行為のことを考えたとしても、理性を失った非人道的で残酷な階級闘争あるいはスターリン主義者の流血を好む残忍な流儀の共産主義の名のもとで、度々犯された更なる残虐行為によって激しく腐敗堕落していた。
 チェーザレ・ライモンディは、重要で有名な店の責任者であるという事実だけで、もはや安全とはいえなかった。残酷な殺人者のゲリラは、田園地帯を荒らし回っていた。犯罪者達は、中産階級あるいは、平均的な社会的地位に属しているというだけで、全世帯を徹底的に破壊していった。どうするか?
 チェーザレは、冷静に判断しようとした。アメリカの爆撃が、ほとんどいつもイタリアの街の最も重要な芸術的建造物を避けようとしているということに思い至った。
 ボローニャのチェントロで捨て値で売りに出されていたマンションは、田舎に疎開していた家族にはとても広々していた。チェーザレは貯金をかき集めて、ピアッツァ・マッジョーレに最も近いとおもわれるマンションを手に入れた。それは、街のど真ん中でゼッカ通りにあった。
 この様な行為は、この時期にすべての論理の逆を行っていたが、結果的にチェーザレは、貯金をはたいてマンションを買ったことで、後に続いた深刻なインフレからも、彼の人生と彼の愛する家族を守ることができた。

 事実、予想されたように《爆撃機》の爆弾は、近くをかすめたけれども、ボローニャのチェントロ、特に歴史的通りを尊重した。静かなヴィディアティコから戻ったドーラと子供達は、街の爆撃に相当なショックを受けた。
 毎晩ボーローニャの人達の眠りは みんなの想像力で"ピッポ"と好奇心から名付けられた単独の飛行機の夜間の襲撃によって妨害された。"ピッポ"は、街の上空を飛んで、いくつかの爆弾をでたらめに落として、他のどこか近くの街、モデナ、レッジョあるいはパルマに去っていった。
 ルッジェーロは、"ピッポ"の通過で毎晩、怖くて冷や汗をかいたことをよく覚えていた。そして、いつ爆弾が落ちるかと息を殺して緊張して待ったが、無事通り過ぎたことを毎回神様に感謝した。
 ついにアメリカ兵がやってきて、武装したドイツは逃走した。しかし、本当に解放のちょっと前に,小さなルッジェーロは、真夜中に、まさに彼の家の下でファシストに射殺されるパルチザンの若者の絶望的な祈りを聞いて、恐怖で石のようになった。
 この戦慄の儀式は、彼の世代の多くの若者達と同じように、彼の心の奥底に傷跡を残した。

 1945年の解放は、盛大で忘れられないお祭りだった。そして、ルッジェーロもついに正常になったことを完全に意識して、みんなと同じように喜んだ。小学校通って、父の蓄音機の前で夢を見ることを再び取り戻した。
 今、父が、友人のエドアルド・ボンジョヴァンニから手に入れた新しい曲に夢中になっていた。それはティート・ゴッビが歌う《オテロ》の"Credo"だった。

 やっと6才になったある日の夕方、家族みんなの前でその曲を繰り返した。信じられないような、途方もなく力強いバスバリトンのように大きな声だった。
 チェーザレには、白日夢のように思えた。
 この子が、彼自身何年間も実現するはずがないと分かっていながらも期待した偉大なオペラ歌手になるという夢を現実のものとすることができるのだろうか?
 ドーラは夫をあちこち捜したが、無駄だった。すでにチェーザレは、息子のために歌の教師をさがさなくてはと画策していた。友人のボンジョヴァンニに助言を求めたが、もしこの音楽の分野に詳しいとしてもこの様なケースでは紹介できなかっただろう。
 「6才の子供に歌の勉強をさせたいって?」
と編集者のボンジョヴァンニは考え込んで言った。 ー続くーLeone Magiera著"RUGGERO RAIMONDI"

※イタリア戦線:1943年9月3日、連合軍イタリア半島上陸、9月8日、イタリアは降伏したが、イタリア占領を行ったドイツ軍と親ドイツ派の一部イタリア軍が連合軍と交戦、パルチザンも加わって内戦状態となる。戦いは長期化し1945年5月まで続いた。


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TARO

ボンジョヴァンニって、あのボンジョヴァンニ・レーベルのボンジョヴァンニのことですよね?
それにしても次々と知り合いに有名人が出てくるもんですねえ。
by TARO (2005-10-26 00:40) 

keyaki

ボローニャのボンジョヴァンニと言えば、あのボンジョヴァンニしかないですよね。
このころはSPですから、レコード一枚でアリアが一曲ってとこですよね。
恐らく、オペラの公演に行っては、録音してレコードにしてたんでしょうね。それで「ゴッビの新しい録音あるよ・・・」なーーんてことだったんでしょうね。

ところで、こういうレコードを作っている人のことはなんていうんでしょうか? イタリア語では単に"editore"です。語彙不足を痛感してます。
by keyaki (2005-10-26 02:34) 

助六

小生は高校生の頃、「ボンジョヴァンニ」は「ドン・ジョヴァンニ」をもじった店名だろうと思い込んでいたので、本名だと知った時には個人的には啓示気分でした。ボローニャの店に入った時はそんな思い出もあって思わずニタついてしまいました。彼は小規模とはいえ企画・製作をしていた訳でしょうから「レコード・プロデューサー」とやってしまっても良いかな…。

>激しく腐敗堕落していた
>残酷な殺人者のゲリラ
パルティザンのことでしょうか。だとしたら、ボローニャは米軍により解放されたとはいえ、パルティザンの抵抗活動の中心地だったから、戦後共産党の威光は絶大で、それ故「赤いブルジョワ市」になったと説明されるけど、パルティザン内部には混乱もあり中流階級を襲う単なる略奪者と変わらぬ者もいたということでしょうね。イタリア現代史のこの辺の現場の証言には、私などは普段余り触れる機会がないですから興味深いです。
フランスでも戦後長く「自由の闘士」としての「レジスタンス神話」が続いた後、裏切り・密告・日和見などレジスタンスの裏面が告発された時期がありました。まあそれでもレジスタンスが事実上存在しなかった日本と比べれば(日本は、共産主義者らの逮捕・弾圧が徹底していたとは言っても、それは伊仏でもそう変わらなかったでしょう)、「大したもの」ではありますが。
by 助六 (2005-10-26 06:20) 

keyaki

助六さん
>「レコード・プロデューサー」
なるほど、ありがとうございます。
ボンジョヴァンニは、オペラ好きには有名ですね。
私もこの本に名前が出て来た時、ああ、あのボンジョヴァンニだ、友達だったんだ・・・ふーんなんて思いました。

戦時中の話は、著者のマジエラ氏も子供だったわけですからチェーザレ氏の体験を興味深く聞いたと思います。
イタリアは、親戚同士、隣近所同士がパルチザンとファシストに分かれて争ったり、パルチザンの中でも内部抗争があったりと大変だったようですね。
でも、イタリアも日本もロシアに占領されなくてよかった、、、、。

もう一冊のドイツ人のアンケンブランドさんの本ですが、彼女がインタビューで、戦時中のことを話題にして
「ドイツ人として、非常に申し訳ない気持ちだった。」
と書いているところが印象的です。
by keyaki (2005-10-26 10:16) 

YUKI

戦時中って凄く大変だったようですねぇ。
母から聞いた話では戦時中では日本でもピアノとかの勉強は大変だった様に聞きました。
しかし6歳の子供に歌の勉強をさせたいという想いは凄いですねぇ。
小さかった時に凄い力強い声で歌う事で素質があると見込んで父親にすれば早くから教育を始めさせたいと思ったのでしょうかねぇ?!(^_^)
by YUKI (2005-10-26 16:24) 

なつ

私も今日の今日まで Bongiovanni社は Don Giovanni のもじりだと思ってました~
ライモンディは、幼時にもうElla giammai m'amoを愛聴してたんですね。

>パルチザンの中でも内部抗争が
そういえば、同じボローニャ出身のパゾリーニは、弟が戦時中パルチザンの内紛で殺されていましたね…

>残酷な殺人者のゲリラは、田園地帯を荒らし回っていた。
これがドイツ軍を指すのか、パルチザンを指すのか気になるところです。
by なつ (2005-10-26 22:21) 

keyaki

YUKIさん、なつさんコメントありがとう。
>ボローニャ出身のパゾリーニは、弟が戦時中パルチザンの内紛で殺されていましたね…
しかも、終戦のちょっと前。パゾリーニも招集令状が来たので、一旦は軍隊に入って、すぐに仲間と脱走して、学校を造ったとか・・・この辺が日本人では考えられませんね。

>ドイツ軍を指すのか、パルチザンを指すのか
共産主義系のパルチザンくずれでしょうか。はっきりは書いてないです。
チェーザレ氏は、ファシストに捕まってシベリア送りになるところを妻に助けられた・・という体験もあるようです。
by keyaki (2005-10-27 10:05) 

Aki

Bongiovanni なんて確かに誰だってDongiovanni のもじりと思いますよね。私も黒田恭一さんの随筆で読むまでてっきり・・・。 
で、問題の「editore」ですが、この1940年代の時点では、まだそのまま「編集者」でいいようです。 Bongiovanni のHPの「社史」(?!)を読むと、もともと楽譜の出版をやっていたそうで、今のようなレコード録音を始めたのは1970年代に入ってからだそうです。
http://www.bongiovanni70.com/
フレーニの録音が当たって、レコードに手を広げていったようですね。確かに我が家にもBongiovannniレーベルの若き日のフレーニのLPが2~3枚あります。
ところで、1978年にここからRRの「scuola di canto」という、なんとRRのマスタークラス物のLPが出ているのです。 同じシリーズで、パヴァロッティ・フレーニのジョイントレッスン録音をもっているのですが、これと同じなら、ボローニャ音楽院の学生相手のレッスンと、インタビゥが入っているはずです。 
ただ、この初期のレーベルは「Scuola・・・」もそうですが一部、「Mizer Record」というレーベルで発売されています。
このRRのマスタークラスのLP、ずっと探しているのですが、見つかりません。 初期のレーベルはライブばかりだったそうで、パヴァ・フレーニのマスタークラスのも、音楽院の教室で録ったようで、床のきしみや、外の車の音なんかも入っていて、妙な臨場感があります。
RRのほしいなあ・・・中古LPのラックをせっせとひっくり返しているのですが・・・・
by Aki (2005-10-30 00:49) 

keyaki

Aki さん
すごい情報ありがとうございます。
楽譜の出版だったんですか、納得です。
訳す時にはその時代の背景もわかってないとなかなか難しいものがありますね。
私は、自分のために訳しているのでお許し願うとしても、出版されているものにいい加減なのが多いなぁ、、、なんて思ってます。

>RRのマスタークラスのLP
聴きたいですね。
by keyaki (2005-10-30 01:07) 

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