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1.第一章:召命(ルッジェーロの誕生、戦争..) [ L.Magiera著:RR]

☆L.Magiera著"Ruggero Raimondi"、16才で声楽の勉強を始めた頃からオペラ歌手デビューまで記事にしましたが、読んで下さった方ありがとうございます。今度は、最初からぼちぼち読んでいくつもりです。

 1941年10月3日の午後、チェーザレ・ライモンディが自宅の階段を上っていると、空襲警報が鳴り始めた。彼の家は、城壁の外、ポルタ・マッジーニを出て100メートルも行かない所にある質素ながらも品のある住宅だった。

 ボローニャの人々が、戦争が始まって以来初めて聞いたその悲痛で耳をつんざくような音は、善良な住民をパニックに陥れた。多くの人々は、ファシストの横柄で威圧的なな新聞によって明確に決められた《避難所》をわざと無視して住宅の地下にあるワイン貯蔵庫に避難場所を求めて走った。他の最も賢明な人々は、どんな方法でも逃げ出すことを選択して、サン・ルカの丘、あるいは、即刻、郊外に向かって街のあらゆるポルタ(城壁の門)から外に急いだ。

 チェーザレは、家の門を開けて、最初の二人の息子が生まれる時に妻のドーラのお産を手伝った高齢のベテラン助産婦のルチアを出迎えながら、この空襲警報が、ひどくならならなければと思った。ドーラは、非常に気にする性格であったが、幸運なことにサイレンによって引き起こされた混乱のことに気づかなかった。恐らく、陣痛の苦しみによる衰弱でサイレンの音さえ気づかなかったようだ。

 父の帰宅は、この非常事態の混乱を怖がっていた5才と3才の息子達、ラッファエッロとロベルトの不安と動揺を少し和らげた。

 背丈が190センチで運動選手のような頑丈な体格に見合った勇敢なチェーザレ・ライモンディは、最も困難な状況においても冷静な判断ができるタイプだった。数分が過ぎて、恐らく、間違いの空襲警報か、もしかしたら軍事訓練であるかもしれないと考えた。彼は、しばしば赤十字に協力していたので、前からこの可能性の話しを聞いていた。

 ドーラの間隔をおいて聞こえてくるうめき声に聞き耳をたてている間、戦闘機の轟音は聞こえなかった。それから、数時間後に赤ん坊が生まれた。クマのぬいぐるみのように羊膜に包まれていた。  「チェーザレ、ほら、聖母マリアの衣を着ているわ!」ドーラは、疲れきっていたが、幸せそうにささやいた。
「これは、とても縁起のいい印なんですよ」と助産婦のルチアは説明した。そして更に「お父さんにそっくりのとても美しい赤ちゃんだわ。」と付け加えた。チェーザレはとても嬉しかった。

 ルッジェーロは、また3番目も男の子だったらそう名付けようと決めていたのだが、健康を絵に描いたような男の子だった。

 数日の間、家族の中では、誰も空襲警報のことは話さなかった。チェーザレは、妻は事件のことは何も知らないと思っていた。しかし、尋ねて来た友達に出来事の詳細を知らされて、ドーラは非常にショックを受けた。

 「チェーザレ、私の友達みんな、避難したそうよ」と夕食の席で彼に報告した。「ベンフェナーティさん一家は、カステナーゾに出発して、ローザ・フィリプッチさんは、イモラに移るし、助産婦のルチアは、数日のうちにロマーニャのルーゴに引っ越すそうよ。私達も、しばらく前からヴィディチアティコに来たらと言ってくれているクロティルデおじさんの招待を受け入れた方がいいかもしれないわね。」

 チェーザレは、そうすることをなかなか決心できなかった。このようにイタリア人のほとんどが、ムッソリーニのプロパガンダや《勝利の電撃戦》によって、ヒットラーによる大本営発表を信じていた。しかし、彼は賢明で慎重な性格だった。数ヶ月前に芸術的サークル《レオーネX》で聞いたオペレッタのテノール、ドメニコ・アヴァンツィーニの話について考え続けた。
 アヴァンツィーニは、フォンダッツァ通りにあるサークルで非常に尊敬をもって迎えられいた。というのは、アメリカに巡業して、作曲者でもあるヴィルジリオ・ランザートの指揮でオペレッタ《平和の鐘》《Cin-Ci-Là》《ハリウッドの公爵夫人》を歌った。

 「みなさん」アヴァンツィーニは、柔らかいヴェルヴェットのような声で話した。「もし、アメリカが参戦したらとんでもなく吃驚仰天することになるでしょう!今はオペラを歌うことを楽しみましょう。」アヴァンツィーニは続けた「そして、チェーザレ、君は《Lacerata spirto》をとても上手に歌いました。もうちょっと響きを明るくすれば、バリトンに変わる可能性があります.....ですが、他の曲でそれを見つけることができるとしても数ヶ月間だけかもしれません。つまり、アメリカの《戦闘機》が、恐ろしい爆撃で私達の街を完全に破壊するでしょうから。」

 アヴァンツィーニの言葉は、懐疑的と受けとられたので、狂信的なある者は愛国心が足りないとか、ほとんどファシストを信頼していないと非難した。高齢のテノールは、ちょっと驚いたようだったが、すぐに話題を変えて、それから雰囲気を明るくするために彼の好きな曲《Addio Mignon》を歌ってくれた。

 しかし、その言葉は、再びチェーザレの頭の中をよぎった。彼は考え込んで、まだ妻の問いに答えていなかった。

 「あぁ、ヴィディチアティコのクロティルデおじさんだね!うーん」チェーザレは時間をかけて言った。「いいでしょう、私は、いつも君が正しいと思いますよ。私達も引っ越しの準備をしよう。そこには危険がないことを願って。」ドーラの心配な様子を見て、すぐに付け加えた。「でも、丘での生活は、君と子供達に間違いなくとても良いことだろうね。」

 街を離れる決意ではあったが、実現するまでに数年がたった。戦争の公報は、全戦線でナチスーファシストの勝利が続いていること、敵の飛行機は撃ち落とされ、イギリスの軍艦は撃沈されたことを報告した。また、アメリカの参戦についても、少なくともこの時点では、アヴァンツィーニの予告通りにはなっていなかった。サークルでは、このことで彼は度々嘲笑された。そうは言っても、そのことで、彼のいつもの持ち前の陽気さは変わらなかった。

 チェーザレは、彼の仕事の特に重要な時期であった。恐らく、街で一番有名でエレガントな服飾産業スキアーヴィ&ストッパーニ商会の責任者に指名された。

 若い頃から身を粉にして働いていたので当然のことだったし、ボローニャの有名な元サッカー選手だが、今は、幸運にも裕福な実業家のアンジョリー・スキアーヴィの子会社としてすべての難関を乗り越えた。

 この時期、街から離れることは、彼にちょっとした問題をもたらさない訳ではなかった。しかし、状況は、劇的な決断を早急に迫られていた。
 ボローニャへの最初の空襲は、すさまじいもので街は破壊された。空襲警報は、繰り返し鳴らされた。注)1944.1.29の爆撃

 最初の爆弾は、ドンという音より先にほとんど不意に落ちた。 爆撃機は、高度を上げて飛来したので、上空に来るまで誰も気づかなかった。
 最も被害の大きかった区域の一つ、現在のアメンドーラ通りで爆撃にあったチェーザレは、彼の目の前の建物が、凄まじい大音響とともにあっという間に崩れ落ちるのを見た。

 大理石の巨大な二本の柱の狭い隙間に本能的に隠れ場所を見つけた。そしてこのとっさの行動は、彼の命を救った。アーチの下で、崩壊した建物の瓦礫と凄まじい爆風に耐えた。

 爆撃は数分だったが、チェーザレは永久に終わらないのではないかと感じた。数カ所の傷から血が流れるのを感じた時、幸運に恵まれた避難場所から這い出して、まっ先にポルタ・マッジーニの方向を見た。駅の方角のあちらこちらに煙が立ち上っていたが、彼の家の方には爆撃はなかったように見えた。

 彼は、すぐに家に帰らなければという強い衝動に耐えなければならなかった。赤十字に協力している彼の義務は、その場に留まって、負傷者を助けることだった。チェーザレは、何時間も救出作業に全力をつくした。

 数日の後、犠牲者の通夜の手伝いに順番で呼ばれた時、友人のドメニコ・アヴァンツィーニの遺体を見つけて仰天した。ザンボーニ通りの「避難場所」の建物の瓦礫の中で死んでいたことを知らされた。

 チェーザレとドーラは、一日も無駄にしなかった。
 数日で、引っ越しのために馬車を見つけることは、ほとんど不可能だった。すべてのボローニャの人達は、恐れおののいて、街を取り囲む丘の上とか、田園地帯に急場しのぎに避難先を見つけた。だが、ライモンディ一家は、2月のある朝、裕福な地主だったアンジョリーノ・スキアーヴィオの援助で障害を乗り越え、荒い息づかいのやせ馬に引かれた古びた馬車の御者に早変わりしたチェーザレと共に、武器と手荷物を積み込んでヴィディチアティコに向けて出発した。

 この出発は、チェーザレとドーラ夫婦にとって、小さなルッジェーロの思い出の中のドラマティックな出来事として、いつまでも深く心に刻まれて残った。ー続くーLeone Magiera"Ruggero Raimondi"  

注)1943年から、北イタリアの都市は連合軍の爆撃によって甚大な被害を受けた。1944年1月29日のボローニャのチェントロへの爆撃でザンボーニ通りの大学図書館も破壊された。戦後、残った廃材を使って再建された。

写真上)L.Magiera著"Ruggero Raimondi"の本の表紙は、アラン・レネ監督の映画「人生はロマン」のフォルベック伯爵の写真
※ヴィルジリオ・ランザート:VIRGILIO RANZATO:1883 - 1937  Il Paese dei Campanelli (1923)、Cin-Ci-Là (1925)、La Duchessa di Hollywood (1930)


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euridice

第二次世界大戦の記憶も失われようしていますね。このころ生まれた世代でさえ、もう60歳を越えてしまったわけですもの・・
by euridice (2005-10-25 09:50) 

keyaki

米軍の爆撃の話とか、戦時中の話は両親からよく聞きました。
>第二次世界大戦の記憶も失われようしていますね 。
戦争の悲惨さは、忘れないように語り継いで行かなければ・・・

イタリアは、内戦状態になって降伏してもなかなか終結しなかったんですね。その辺の歴史的なことにうといので、インターネットでちょっと調べましたが、ボローニャの最初の爆撃の日にちもわかりました。ネットって便利!
by keyaki (2005-10-26 02:25) 

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