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エピソード:声楽授業(5)ローマ編(エドヴィージャ・ギバウド) [ L.Magiera著:RR]

8月1日の記事の続きです。
ジュセッペ・タッデイ推薦のエドヴィージャ・ギバウド を訪ねることになりました。父も最終的には納得して彼をローマに送り出してくれたのです。(後にライモンディは、ローマでの生活は、とても楽しいものだったと語っています。それにローマの街は、大好きだそうです)
ギバウド先生ではありません、 Mafalda Faveroアール・ヌーヴォ様式の二階建ての邸宅の、"Ghibaudo"とだけ書かれた呼び鈴を鳴らし、小さいけれど趣味のいい上品な庭にある階段をあがって行きました。高齢のシニョーラ・ギバウドは、一人暮らしでした。古いグランドピアノとfin de siecle様式の家具のあるりっぱな客間に通されました。グランドピアノの上には、「最も愛する歌手へ」という献辞が書かれたチレアの大きな写真が飾られていました。すぐにお茶とお菓子が運ばれてきました。

ルッジェーロは、これまでの音楽院での勉強について、簡単に話しました。
「要するにあなたは、本当に勉強することができなかったということですね。」
「その通りです」ルッジェーロはため息をつきながら「いつも、自分なりに歌っていただけですけど、今はバスかバリトンかさえもわかりません。特にカンポガッリアーニ先生の教室で、驚くほどすばらしい声を聴いた時から。本当に歌うことができるかどうかさえも自信が、、、、」
「いいでしょう、なにからはじめましょうか」先生は尋ねました。「母音唱法(vocalizzo)で歌ったことはないのかしら」
「ないです。悪魔ロベルトの"Suore che riposate"を歌ってもいいですか」(なかなかシツッコイですね)
「ええ、もちろん、あなたの好きな歌を歌っていいですよ」
ルッジェーロは、とても幸せでした。マイアベーアのこのアリア、美しく且つ力強い"高音"のF#があるためカンポガッリアーニ先生が歌うことををいつも禁止していました。

ギバウドは、ルッジェーロの歌を聴いて、驚きを率直に明らかにしました。
「ルッジェーロ、あなたは、とても美しい声を持っています、これはとても大切なことです。少し、それを制御することと、もっと柔軟に歌うことをを習得すれば、数年でデビューの準備ができるでしょう。 」
「そのように言って下さって、嬉しいです。ところで、僕の声は、バス、バリトンどちらとお考えですか?いろいろいわれるのですが、ご意見を伺えれば嬉しいのですが」
「"高音"は、明らかにバリトン的といえます。実際に、f♯はバリトンのための"高音"です。しかし、声の音色は、、、バリトン的な華やかな輝きが充分とは言えないと思います。従って、"高音"の声域の美しさと力強さは充分ありますが、音色は、まさしくバスであることは間違いないとおもいます。」
ルッジェーロは、アリアだけですが、すでに自分の持ち歌(レパートリー)と呼ぶものを持っていて、その日は、それらをたくさん歌った。
そのアリア"O tu Palermo","Ella giammai m'amo","Infelice,e tuo credevi(con cabaletta)"は、わずか16歳の少年にとっては、普通は、自殺行為とされています。ルッジェーロは、危険を顧みず、闘牛の牛のように力強く、抑えて歌うことはしませんでした。これらは、後に舞台での主要なバスのレパートリーとなりました。

ギバウドは、すぐれた心理学者で、最初の面接でルッジェーロの性格を把握しました。数ヶ月間、信頼関係を築くまで、指導をしませんでした。
イタリア古典歌曲からレスピーギ、ピッツェッティ、トスティまで、シューマン、シューベルト、ウォルフ、R・シュトラウスのドイツ歌曲、グノー、ビゼーから、フォーレ、ドビッシー、ラヴェルまでのフランス歌曲のこと等、現代の歌手にとって、レパートリーのいろいろなタイプの知識として必要なことを話しました。更に、彼女の天分に恵まれたすばらしい声を聴かせたのです。ルッジェーロは、その音楽に惹き付けられただけでなく、ギバウドのフレージングによって表現する方法、彼にとっては新しい世界が開かれたのです。
まず、何が"歌う"の意味かを正しく理解することをよく言われました。すなわち発想記号の偉大な豊かさ、声の多様な色彩、そして言葉と詩によるイメージで伝える正しいパトスとの関係です。

ギバウドは、すばらしい機智により、母音唱法を毛嫌いした人並外れた例外的な生徒の基礎練習の特別”メニュー”を作り、音階とソルフェージュもまた勉強の”メニュー”のなかに取り入れました。
次第にルッジェーロは、たとえ母音唱法の機械的な方式であっても楽しみを発見するようになったのです。時折、ヴォカリーズは、強く不自然な声の響きを生じながら、つまったりすると、ギバウドはすぐにトスティの短いアリエッタの導入部を弾きました。すると再びうっとりすような甘美な音楽が溢れ出てくるのです。
このようにギバウドとルッジェーロは、まさに"coup de foudre"、教師と生徒の間のプロとしての相互理解を深めていきました。
しかし、悲しいことに、この素晴らしい関係は、長くは続かない運命でした。

ギバウドとルッジェーロの間の相互理解は、それから完璧に前進していきました。
高齢のシニョーラは、歌劇場の歴史の中で重要な足跡を残す運命の歌手、このような弟子を持ったことを認識していましたので、彼の教育に専念するために徐々に他の個人レッスンを中止したのでした。
ルッジェーロは、彼の歌によって、ギバウドの教育を尊重すると伴に、第二の母のように愛情を感じていました。
もちろん母ドーラとの関係は、非常に良かったのですが、母とは、音楽的プランの相互理解は欠けていました。それとは反対に、父チェーザレは、彼の最初の本当のよき助言者で、今も良き理解者でした。
父は、ギバウドの何回かのレッスンに同席しました。そして父は、このシニョーラの教授法を最も評価し尊重しました。
このことを夫から知らされて母ドーラはとても満足していました。ついに末息子が、勉強することにおいて平穏を見つけたことを喜んでいました。たとえ、心の中では、声楽という進路が息子の将来にちょっと危険な行動ではないかと警戒し続けていたとしても、、、。

父チェーザレが訪れたあとのある日、ルッジェーロは、チョコレートの大きな箱を抱えてギバウド邸に向かいました。この日、シニョーラは、彼女の誕生日を祝って、少数の友達、ほとんど高齢の元歌手による、小さなレセプションを準備していました。父から神話的歌手だったと聞いて憧れていたマファルダ・ファヴェーロも来ることになっていました。
邸宅の曲がり角で、ルッジェーロは、庭の方に悲しみに満ちた一団を見て、胸が締め付られるのを感じました。何が起こったのか瞬間的に感じたのです。その中の一人の年配の婦人は、ファヴェーロ本人でした。
「眠っている間に亡くなられたの、誰も気づかなかった、、、」
ルッジェーロは、先生に最後のオマージュを捧げるために階段を上がって行きました。手に抱えたチョコレートの大きな箱さえも悲しみをさそいました。
かろうじて涙をおさえて、階段を下りながら、傷心を癒すために当分の間ボローニャの両親のもとに帰ることを決めたのでした。 ー続くー

注)RRが16才ということは1957年〜1958年ですから、ギバウド先生は、80〜88才位で亡くなられたのではないでしょうか。
※エドヴィージャ・ギバウド Ghibaudo, Edvige, Alt, *1870 (?), † (?))、チレアの"Adriana Lecouvreur"の初演のメゾ、ブイヨン公爵夫人。カルーソーと共演(1902年)
※写真上)マファルダ・ファヴェーロ( Mafalda Favero1905.01.06-1981.09.03)イタリアのソプラノ。


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コメント 1

euridice

良い教師との出会い、重要ですね。声楽にかぎらないでしょうけど、そういう出会いがあるのとないのとでは、人生、ずいぶん違うんでしょう。でも、そういう出会いができる人って、少ないんでしょうね。
by euridice (2005-08-07 05:15) 

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