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シャリアピン自伝 私の生い立ち(1926年著)-2-変声期、放浪 15〜17才 [オペラ関連書籍&雑誌]

↓赤い所が生まれ故郷のカザン、モスクワから800キロ (東京から広島くらい)

 フョードル・シャリアピンFyodor Chaliapinは、1873年2月13日、父イワン、母イェヴドーキヤの長男としてカザンの魚市場通りの借家(大家は商人のリシーチン)で生まれます。兄弟は、弟ニコライ、妹イェヴドーキヤ、10歳下の弟ワシーリー。13歳で小学校を卒業、質屋の出納係として働きますが、父の意向でアルスクの二年制実業学校に入学。結局、家庭の事情で中退して、カザンに帰り、父と同じ郡役所で書記の仕事をするようになります。10歳頃から、教会で歌ったり、曲を作ったり、芝居に夢中で、本の虫......ここまでが前回のお話です。


相変わらずの極貧生活、変声期(15歳):
 父と机を並べて報告書を書く毎日だったが、芝居好きが高じて、友人カミンスキーに誘われて、仮病を使って役所を休み、芝居に出ることになる。ところが、舞台に出て、動くことも喋ることもできず、みんなの笑いものになった上、殴られて追い返され、ショックで三日間も無断欠勤して、役所はクビ、しかし、運良く裁判所の書記に雇ってもらえた。いつも勤務時間内に写しきれない書類を家に持って帰っていたが、あるとき、判決文をどこかの店に置き忘れ紛失、あえなくクビに。今度は、職も見つからず、変声期(15歳)で、コーラスにも誰も雇ってくれなかった。

食いつめて一家でアストラハンへ、変声期が終わりバリトンに(16歳):
 一家は、食べるものにも事欠くようになり、家族でカザンからヴォルガ川を船で下りカスピ海北岸のアストラハンに移り住む。ところが、あてがはずれ、私も父も職にありつけず、母が、船の皿洗いをやり、そこの残り物を持って帰り、なんとか飢えをしのいだ。
 そうこうするうちに変声期が終わり(16歳)、バリトンになったので、教会で歌って、小銭を稼いだ。また、遊園地の芝居のコーラスにも入れてもらい、無給で腹の足しにはならなかったが、歌えるだけで幸福だった。しかし父は、「お前は、みんなを飢え死にさせるつもりでここに連れてきたのか」と怒って私を殴り、もらった楽譜を破ってしまったので、遊園地のコーラスにはもう戻れなかった。

家を出る:
ニージニの市(イチ)で、歌って一儲けしようと決心して、家を出てカザンに戻ることにした。両親も口減らしができて少しでも助かるので反対はしなかった。旅費は教会の指揮者に借りて、船に乗り込んだ。
 カザンに着いて、船は翌早朝の出発だったので、友達ペトロフの家を訪ねて泊めてもらったが、翌朝、船での肉体労働の疲れで目が覚めず、船は私の荷物とともに出発してしまった。仕方なく仕事を探し、なんとか長老会議所の筆耕の職を得て、ペトロフの家に居候させてもらった。

セミョーノフ・サマルスキーに出会う(17歳):
 パナイエフの劇場にオペレッタの一団がやって来た。毎晩のように見物に出かけたが、ある日、セミョーノフ・サマルスキーがウーファに行くコーラス団を集めていると知り、さっそく頼みに行った。「何が歌えますか?」なにも知っているものはないのに、「椿姫もカルメンも知ってます」とつい嘘をつき、「私が指揮するのはオペレッタなんですよ」と言われて、「コルネヴィルの鐘...」と聞いことのある名前は全部言ってみた。サマルスキーは、驚きもせず、「いくつです?」「19歳です(本当は17歳)」とまた嘘をついた。「声は?」「第一バスです」....そして、劇団に入れるならただでもいいと思っていたのに、なんと月20ルーブル(筆耕の仕事は月8ルーブルだった)で契約書にサインした。

ウーファで歌手としての第一歩を踏み出す:
 ウーファでの最初のだし物は《パレルモの歌手》。第二バス、シャリアピンと広告に名前が出たときは、夢のような気がして嬉しかった。最初は、足が震えてどうしようもなくみんなの後ろに隠れて歌ったが、1ヶ月くらいたつと、舞台の上でもどうやらに動けるようになり、小さな役ももらえるようになった。クリスマスにやることになった《ガリカ》の父の役をやる歌手が、うまくうたえないものだから急に降りてしまった。そこで、監督が私にやれるかと聞いてきたが、とてもやれませんと言うつもりが、やれますと言ってしまった。失敗もあったが大成功で観客から拍手ももらい、仲間もほめてくれた。芝居は順調に進み、みな仲良く働いた。しかもサマルスキーは、私に対するお礼に慰労興行をやるからと、好きなものを選ばせてくれた。前からやってみたかった《アスコルドの墓》の見知らぬ男を歌った。慰労興行は、割前で30ルーブルもらえたし、お客さんから50ルーブルと銀時計と鉄鎖までもらえて、すっかり金持ちになって幸せだった。興行は終わったが、サマルスキーにヅラトゥーストでのオペレッタのコンサートにも誘われ、かなり上がってしまったが、満場の拍手を受け、一晩で15ルーブルももらった。皆と別れて、ウーファに戻ったが、芝居も役者もいなくて淋しかっし、たくわえも数週間で底をついた。

つかの間の落ち着いた生活:
 そんな時に前に劇場で会ったことのある弁護士のルイジェンスキーが訪ねてきて、地方の音楽愛好家たちが芝居と音楽をやるので手伝ってくれと言ってきた。二つ返事で引き受け、メフィストフェレスを歌った。音楽愛好家や村長が、いい声をしているし芝居の才能もあるから、モスクワかサンクトペテルブルグに行って勉強するお金をこしらえてやろうではないかという話になったが、とりあえずは、ウーファの役場で働きながら皆のために歌を歌うという生活に落ち着いた。
 しかし、音楽同好会の約束も実現しそうにもないし、平凡な生活に嫌気がさしてきたときに、小ロシアの一座がやってきて、座長に一緒に来ないかと誘われた。今まで親切にしてもらった人たちに申し訳ない気持ちもあったが、逃げるようにして、一座の後を追って船に乗った。途中のサマラには両親が住んでいたので会いに行った。弟たちは元気だったが、父は仕事がなく、母が物乞いをしてなんとか生活していた。

小ロシアの一座とどさ回り:
 小ロシアの一座に雇われてウラリスク、サマラ、アストラハン、ペトロフスク、テミール・ハン・シュレ、ウズン・アダで興行した。ほとんど放浪生活のようなもで、時々はノスタルジーに襲われたが、小さい役もつき、愉快な毎日だった。
 長い間アジアを旅して回った。サマルカンドはいいところだったが、そろそろこういう放浪生活から抜け出したいと思っていたところバクー(現在のアゼルバイジャン共和国の首都)でサマルスキーに出会い、フランスの一座を紹介された。そんなところに「母死す、金送れ。父より」という電報が届いたが、お金を工面することもできず、座長に泣いて頼んだが、すげなく断られ、今までの我慢も限界に達し、一座は旅立ったが、私はバクーに残って、フランスの一座に入った。フランス人は3、4人であとはユダヤ人とロシア人で、フランス語風にわけのわからない言葉で歌て楽しかったが、給料をもらわないうちに解散してしまった。仕事も金も無く独りになったが、あんまりみなりが汚かったので教会のコーラスにも雇ってもらえず、仕方なく船荷人足になった。ところがコレラが蔓延し、町は役人も逃げ出すほどの混乱で、また職を失い、なんとかチフリス(現在のグルジア共和国のトビリシ)にたどりついた。

波瀾万丈、どこを切り取ってもドラマになるようなエピソードが続きますが、きりがないので端折って.....

元帝室歌劇場歌手ウサートフ教授との出会い:
 チフリスで飢え死にしそうなったが、運良く友人に助けられ書記の仕事を紹介してもらった。職場の同僚が、いい声をしているんだから、ここにいる帝室歌劇場歌手だったウサートフ教授について、もっと勉強したらどうかと勧めてくれたので、彼に会いに行った。
 ウサートフはピアノに向かって、まずアルペジオを歌わせた。それから、なにかオペラものを歌うようと言ったので、バリトンのヴァランタン(グノーのファウストのアリアでしょうね)を歌いはじめた。ところが、高音を延ばしたとたん、ウサートフは伴奏をやめて、私をつついたので、歌うのを止めた。沈黙が続いたが、私は耐えきれなくなって、「教えていただけますか?」と尋ねた。お金はいらないから習いに来なさい、と言われびっくり仰天。その上、ただ歌の勉強をするだけで月20ルーブルくれるという人を紹介してくれて、もっといい部屋に移ってピアノも借りるようにと言われた。(続く)
今度こそ運が向いて来たのでしょうか.....


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ふくきち

マリリン・モンローに演技指導したことで有名なリー・ストラスバーグ(アクターズ・スタジオの芸術監督)は、オペラ歌手の演技でまともなのはシャリアピンとカラスだけ、と言っていたそうです。
苦労した人は演技力も違うのでしょうかね~。波乱万丈の人生ですね。
by ふくきち (2007-09-01 02:44) 

keyaki

ふくきちさん、
ライモンディも、カラスとシャリアピンの表現力,表現的歌唱について常に語っていますし、尊敬するオペラ歌手は?という質問にはこの二人の名前を出しているんです。

シャリアピンの場合、普通のサラリーマン的な生活もできたんでしょうけど、芝居=オペラの魅力に取り憑かれた人生ですよね。
面白可笑しい吃驚エピソードばかり紹介していますが、極貧の上、お父さんがほとんどアル中状態ということをのぞいては、ライモンディとの共通性もあるんです。
子供の頃から本の虫で、劇場通いをして、家族や友達相手に芝居をしたり歌ったり、根っからの芝居好きだったということですね。
by keyaki (2007-09-01 09:13) 

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