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スポレート:春にコンクール→秋に舞台 [RR関連]

なぜ!?大阪では「ローマ・イタリア歌劇団という妙な名前にされています!?(7月7日記事にしました)


 イタリア・スポレート歌劇場「セビリアの理髪師」が、日本各地で上演されています。6月19日〜7月8日まで、新潟、高崎、武蔵野、神戸、名古屋、浜松、横浜、大宮、東京、茅ケ崎、東京、相模原、東京、松戸、福岡、大阪、全16公演です(JAPAN TOUR 2007予定表)。見に行った方の感想がいろいろ読めますが、手堅い公演で、楽しまれた方が多いようです。
 この劇場のキャッチフレーズは、「ブルゾン、ライモンディ、デヴィーア、ヌッチ、サッバティーニ……多くのスター歌手がこの歌劇場から世界へと飛び立った!イタリア最高権威の新人歌手登竜門」だそうです。

 1947年に、弁護士で音楽学者であるアドリアーノ・ベッリが始めた歌唱コンクールは、毎年春にコンクールが開催され、その入賞者たちが付属研究所で、5ヶ月の間研鑽を積み、秋のオペラ・フェスティヴァルでデビューを飾るというユニークなシステムです。こちらにその研修の詳細と“A. BELLI”スポレート実験劇場の沿革を知ることができます。ライモンディとブルゾンの写真も掲載されています。また、こちらには、2007年までの入賞者のリストがありますが、このチャンスを生かして、「世界へと飛び立った!」歌手は、どのくらいいるんでしょうか。

★ブルゾン(1936.01.13- ):1961年、25歳、《トロヴァトーレ》ルーナ伯爵
★ライモンディ(1941.10.3- ):1964年、22歳、《ボエーム》コリーネ
★ヌッチ(1942.04.16- ):1967年25歳、《セビリアの理髪師》フィガロ
★デヴィーア(1948.4.12- ):1972年24歳、《コジ》のデスピーナ
★サバティーニ(1957- ):1987年30歳、《ルチア》エドガルド
コントラバス奏者からの転向のため歌手デビューが遅い

 今では、世界に知られている上記の歌手にしても、ブルゾンは、5年間も食うや食わずの生活、ヌッチは、ソリストの夢を捨ててミラノ・スカラ座の合唱団員に、ライモンディにしても、最初の仕事は、ローマ歌劇場でのロッシ・レメニのアンダーカバーの契約だったんです。
 スポレートでは、過去の入賞者が、新人デビュー公演に出演する慣例があるようで、ブルゾンは1964年のライモンディのデビュー公演では、マルチェッロを歌っていますし、ライモンディは、1967年ヌッチの理髪師のフィガロデビューの時に、ドン・バジリオを歌っています。ヌッチとは、年も近く、それ以来の親友だそうですが、ライモンディは、この時すでに引っ張りだこの歌手でしたから、ヌッチにはまぶしい存在だったようです。
ルッジェーロ・ライモンディとスポレート:
 ライモンディが、はじめてオペラの舞台に立ったのは、スポレートの劇場、1964年9月23日、22歳(ほとんど23歳)のことです。ボエームのコリーネでした。若いバスにふさわしい役は、これくらいですものね。一応、アリアもあって、拍手ももらえますから、目立つ役かもしれません。
 ライモンディのオペラ歌手を目指しての勉強は、かなり複雑です。まず16歳で、ミラノのヴェルディ音楽院に入学、若すぎたからか、学生登録の不備からか聴講生として在籍、大先輩のバリトンのジュセッペ・タッデイのアドバイスで数ヶ月後、ローマの往年の名歌手ギバウド先生のもとへ、数ヶ月後先生が亡くなり、ローマのサンタ・チェチリア音楽院に入学、卒業を目前にして、体育とピアノの授業をボイコットして、自主退学。ボローニャに戻り、ボローニャ音楽院に入学、そこで、マジエラ・レオーネ(ピアニスト,指揮者、パヴァロッティとフレーニの幼馴染みで、フレーニの最初の夫で、ヴォイストレーナー)に学ぶ。在学中にこのスポレートのアドリアノ・ベッリ歌唱コンクールで優勝。最終学年に進むこと無く、プロデビューしたわけです。
 スポレートの公演では、新人バス歌手として絶賛されましたが、即、どこかの歌劇場からオファーが来るということでもなかったのです。しかし、運良くローマ歌劇場に推薦されて、マッシモ・ボジャンキーノのオーディションを受け、大指揮者ジャナンドレア・ガヴァッツェーニのテストに合格して、正歌手ニコラ・ロッシ=レメニのアンダーカヴァーとして採用されます。そして、12月の《シチリアの晩鐘》で、ニコラ・ロッシ=レメニが、アジア風邪で、声が出なくなり、カヴァーでプロチダを歌い、その結果、フェニーチェ座と5年契約。オペラ歌手としての道が開けたのです。

※ニコラ・ロッシ=レメニ: Nicola Rossi-Lemeni1920.11.06-1991.03.12

★ライモンディは、" Concorso Internazionale Comunità Europea del Teatro Lirico Sperimentale "A. Belli" di Spoleto"の審査委員をしたり、Teatro Lirico Sperimentale "A. Belli" di Spoletoのマスタークラスで、入賞者の教育にも携わったり、なにかと協力しています。2002年の第56回コンクールでは審査委員長でした。
ブルゾンとスポレート:(スカラ座の名歌手たち参照)
 「1961年にはスポレートのコンクールで優勝、劇場で歌う権利を獲得しました。公演は上出来で、嬉しかったですね。しかし、それだけのことで、あとはどこからも音沙汰なし....」
 その後の歌手活動は、単発的に仕事が入ったものの低迷状態で、貧乏生活が続き、やっと1967年、パルマから《運命の力》のオファーが来て、テノールはコレッリで大いに期待のかかった公演でしたので、そこにメトの新人発掘の担当者が来ていて、ルドルフ・ビングのオーディションを受けることができ、ブルゾンの本格的キャリアがはじまった...ということです。
参考:スポレート歌劇場サイト
関連記事:
RRのエピソード:いよいよ歌手デビュー(20)スポレート〜ローマ歌劇場へ
《ボエーム》コリーネ:中くらいの役(6)
「外套の歌」が聞けます


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コメント 4

euridice

>アリアもあって、拍手ももらえますから、目立つ役
なんでしょうけど、相当たくさん見た映像、2回の実演で、とっても印象的だったコリーネって残念ながらないですねぇ・・・外套の歌に注目!なんて感じで鑑賞したこともありますけど、その時限りで... だいたいひげづらだったりでむさ苦しくされているから、きゃ〜かっこいい!とか、あら可愛いわね、なんて具合に女性客にアピールするのもむずかしそうですしね^^;
by euridice (2007-07-04 00:10) 

keyaki

>外套の歌
いつも注目されないバス歌手が、アッピールすることができる唯一の歌ですから、新人歌手には貴重なんでしょうね。
ライモンディも実演では、最後が30歳ですね。スポレートでは、22歳ですから、アポロのように美しいコリーネだったとおもいますよ。きっと、ボローニャ音楽院の同級生もかけつけて、このアリアの後は、大騒ぎだったんじゃないかしら。(笑
by keyaki (2007-07-04 15:30) 

へえ、そういうところだったんですね。知らなかった。。
by (2007-07-05 21:43) 

keyaki

gonさん、私も、ライモンディの略歴に、必ず、コンクールで優勝して、オペラデビューはスポレートでボエームのコリーネ....とあるので、なんだろうな、と思っていました。
スポレートには、もう一つ作曲家のメノッティがはじめた有名な音楽祭、Il Festival dei Due Mondi(2つの世界のフェスティバル)もありますので、それと混同していたりしていて、なんかよくわかりませんでしたが、ネットのお蔭で、最近、やっとわかりました。

もちろんライモンディが優勝した頃は、海外公演なんかはやってませんでしたけど。
by keyaki (2007-07-06 00:53) 

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