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指揮者マゼール:ドキュメンタリーOPERA-FILM《ドン・ジョヴァンニ》 [《ドン・ジョヴァンニ》FILM]

(プロジェクトX風に......)1978年、3人の男達はオペラの大衆化(民主化)という命題を掲げた無謀で野心的なプロジェクトを立ち上げた。
男達は、モーツァルトの最も良く知られた傑作の映画化を決めた。ドン・ジョヴァンニは、突如として、全世界を感動させることができる芸術の新しいジャンルのプロトタイプとなった。男達は、二つの世界の激しい衝突を想像さえしなかった。このぜいたくなプロジェクトは二つのジャンル、すなわち、オペラと映画のいずれとも対立していた。
25年の時を経て、我々は、この映画史上類をみない空前絶後の体験の語り部たちを訪ねた。

ドキュメンタリーのインタビューの一部をご紹介、それぞれ2005年9月以降のインタビューです。
『3人の男達』
1.ロルフ・リーバーマン(1910.9.14〜1999.1.2)当時のパリ・オペラ座総支配人
2.D・トスカン・デュ・プランティエ(1941.4.7〜2003.2.10)プロデューサー
3.ジョセフ・ロージー(1909.1.14〜1984.6.22)映画監督
まずはじめに《ドン・ジョヴァンニ》映画制作のための音楽を録音した。リーバーマンはパリ・オペラ座の総支配人だったので、オーケストラは当然パリ・オペラ座の管弦楽団で、指揮はマゼールに依頼。(写真左上:ボサボサ頭のジャージー姿、ウディ・アレンではありません)
イギリスCBSプロデューサーのポール・マイヤーズによれば、歌手がよかったから、やれたようなもので、リハーサルはほとんどジャニーヌ・レイス(パリ・オペラ座音楽指導)にまかされた。マゼールはどこまでやったかとかを忘れて、同じところを何回もやったりしてひんしゅくをかっていたようだ。
ポール・マイヤーズ談:
大抵のオペラレコーディングでは、10分〜20分をとるのに、3時間のセッションを予定するんだけど、私たちは40分〜50分もとったので、もの凄いプレッシャーだった。歌手がすばらしかったから幸運だった。例えば、最終日、3時間の中で、未だ60分のレコーディングをしなければならなかった。マゼールはニューヨークに行こうとしていたし、他の人も他の場所に行かなければならなかったから、とにかく終わらなければならなかった。あの長いカタログのアリアがあって、あれをジョゼは一回で録音した。完璧だった。もう一度する必要がなかった。ヴァン・ダムはすばらしい歌手だ。あんまり調子がよくない日でも、5回以上かかることはなかった。オペラというのはとにかく困難が多いものだ。
マゼールは簡単にできると考えていたと思う。彼は何回セッションがあるか覚えられないと言った。あなたはわかっているだろうというから、もちろんだと答えた。だが、録音が始まると、彼は、歌手がアリアを歌うところやら、もう一度やるべきかとかを忘れたので、とても時間がかかった。
マゼール談:
あのころはとにかく多忙だった。あの時はロンドンで"ルイザ・ミラー"の新演出をやっていたし、メシアンの日本公演の準備中だった。
モーザー談:
パリでジョヴァンニ、ロンドンでルイザ・ミラーよ。歌手はみんな我慢を重ねてたわ。マゼールと仕事をするのは大変だった。
マゼール談:
リーバーマンに、この仕事は引き受けられないと言ったが、私にとってもみんなにとっても、よい機会だと思うから、ぜひやってほしい、君の仕事だと。録音中、リーバーマンは君は仕事をたくさんやりすぎだ、なんでそんなに沢山の仕事をこなせるのかと質問した。で、私は答えた。あなたは健忘症だ、私は他の仕事に集中していたところにあなたがやってきたんだ。リーバーマンは否定したけどね。(苦笑)
ベルガンサ談:
マゼールは来るのがとっても遅かった。私たちは長い間ジャニーヌ・レイスとのリハーサルで過ごした。彼女はほんとにドン・ジョヴァンニを創り上げるのに協力した。びっくりすることではない。彼女はドン・ジョヴァンニを知り尽くしていた。オーケストラが準備万端整って、マゼールが姿を見せて、すぐに録音を始めた。
マゼール談:
オーケストラは私以外の指揮者とこのオペラをしてきた。私が録音に行ったときには、細かいことをやればいいというのが、私のこの企画に対する考えだった。オーケストラは毎晩違うオペラ指揮者に合わせなければならない。音楽のピンポンみたいなものだ。私としては一定の水準と、作品のイメージを保つよう努力した。
キリ談:
録音現場は、競技場みたいで大騒ぎ。信じられないことだけど、オーケストラのお友達やら、お友達のお友達も押し掛けて、統制がとれないし、だれがリーダーやらわからなかった。集中するのがものすごく難しかった。歌手としては自分を保つためには、とにかく、来て、歌って、去るしかなかった。
マゼールの超人的!スケジュール:
LPの解説より"「ドン・ジョヴァンニ」の録音に立ち会ってー木村英二ー"
録音日程:
1978年6月22,23,25,26,28,30日 7月2.5.6日の計9日間
マゼールの録音以外の日程:
ロンドンで"ルイザ・ミラー" 6月19,21,24,27,29 7月1,4
7月3日は、シャンゼリゼ劇場でフランス国立とベルリオーズの"ロメオとジュリエット" 11日には日本に向けて出発.......(唖然額然、ロンドンとパリを何往復してるの!)
ポール・マイヤーズ:「モーツァルトは様式化された音楽だから、伝統に従うだけで、自由に空想の羽を伸ばす余地はないし、モダンな解釈にも限度がある.....マゼールはいいモーツァルト指揮者だと思いますよ。モーツァルト時代の音楽も私にはロマンチックに思えるが、しかし、センチメンタルじゃない。その差には注意しないとね。非常に趣味はいいんだ。マゼールは《ドン・ジョヴァンニ》をエンジョイしていると思う。なぜって、彼はユーモアとかパロディーが好きですからね.......」1979年ロンドンCBS本社で
関連記事:
2006-06-13米国では失敗?ロージー監督《ドン・ジョヴァンニ》
2006-06-10豪華版DVD(仏):ロージー監督の『ドン・ジョヴァンニ』
参考:
・ロリン・マゼール(1930.03.06- )
・ルッジェーロ・ライモンディ(1941.10.3 イタリア)
・ジョゼ・ヴァン・ダム(1940.08.25-  ベルギー)
・エッダ・モーザー(1941.10.27- ドイツ)
・キリ・テ・カナワ(1944.03.06- ニュージーランド)
・テレサ・ベルガンサ(1935.03.16- スペイン)

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コメント 12

本当にウディ・アレンかと思いましたが(爆)
by (2006-06-16 00:27) 

keyaki

gon さん、nice! ありがとうございます。
ほんとうにソックリですよね。
このかっこうでロンドンとパリを行ったり来たりだったのかしら。(笑)
by keyaki (2006-06-16 02:36) 

助六

小生の記憶違いでなければ、当時レコ芸に木村英二氏がパリの教会での録音を見てきてレポートを書かれていたと思います。「オペラ録音は序曲から番号順にやっていくのだろうと漠然と思っていたが、歌手の日程に合わせて可能なナンバーをまとめて録っていく方式だった」みたいなことが書かれていたように思います。機会があったら図書館ででも探してみて下さい。

因みに木村氏は新聞の音楽記者で、当時は、チケットやマネージメント等の問題について、「提灯持ち」以上の少しは「批判的ジャーナリズム」っぽい文章を書かれていた唯一の方だったような記憶があります。

大新聞にも音楽記者はおられるのでしょうが、分かりきった紹介記事を書く以外何をされてるんでしょうかね。新国の「ルル騒動」の時も、聴衆が欲しい情報を少しは調査して報じたのは読売くらいだったと聞いてます。まあ音友社は「楽壇インサイダー」なんでしょうしねぇ。新国の組織・運営だって官僚の思い通りにされてしまった形だけど、全国紙は社説に取り上げたりしたことはあったのでしょうか?
by 助六 (2006-06-16 08:19) 

keyaki

助六さん、記憶違いじゃありません。最後の部分は、その木村英二氏の『「ドン・ジョヴァンニ」の録音に立ち会って』の抜粋です。「ドン・ジョヴァンニ」の LPについていたもので、私はCDしか持っていませんでしたので知人からもらいました。CDのリブレットには、このレポートはなぜか載せてないんです。ソリスト達が談笑している写真とか全員でプレイバックを聴いている写真、ロージーもいます、とかあるんです。こういう点でLPは、資料的に興味深いものがあるんですよね。木村英二氏の写真のライモンディは、口ひげあご髭があるんですが、今回のDVDでは、上の写真のように剃っちゃってます。

マゼールの写真をクリックすると全体の大きな写真が見られますが、木村英二氏は毎日録音に立ち会わせてもらったようですから、写っているのではないかと思います。木村氏をご存知の方が見ればわかるとおもいます。
私はライモンディはわかるんですけど、向かって左側のほおづえついている人ですよね。

記事に木村英二氏のお名前追記しておきます。木村氏の情報ありがとうございます。

最近の新聞の文化面は縮小縮小でなきに等しい状態です。なにが増えたかというと、スポーツ、倍になってます。あまりにもスポーツがもてはやされるのは怖い感じもします。ほんと最近の新聞は読むところがないですよ。
by keyaki (2006-06-16 10:15) 

>最近の新聞は…
激しく同意します。。
by (2006-06-17 02:13) 

lきのけん

 …なるほどねえ…。別項に書いた通り、映画を見た時はそう気にならなかったんですが、レコード録音で音だけ聴いた時の第一印象が、マゼールがすごいやっつけ仕事をしてるなあ…というものだったんです。な〜るほど!…。やっぱりリバーマンは本当はショルティを使いたかったんでしょうねえ…。ショルティなら歌手たちの準備のコレペから何から何まで一切合財全部自分でやってくれるし…。でも、彼はデッカ専属だし、スケジュールの都合なんて全然つかなかったんでしょう。それで無理矢理マゼールに押しつけたんだね。なにせ当時マゼールは便利屋みたいにして使われていたから…(ミュンヒェンでもカルロスの代演で《オテロ》に出てきたぜ。それも当日、なんとフランス国立管とのツアーが終わったばかりの東京から直接すっ飛んで来やがった!)。1975年だかのジョルジョ・ストレーレル版《フィガロの結婚》のメトへの引っ越し公演で病欠ショルティの代役をやったのがマゼール(この時も当日クリーヴランドからすっ飛んで来たたんだ)。それが機縁になってパリで《ペレアス》のガルニエ宮初演(ジョルジュ・ラヴェリ演出版:世界初演以来このオペラはオペラ=コミック座のレパートリーでした)。これがが「超」の字の付く名演で(この時のキャストを後にカラヤンが海賊したわけよ!再演の時は全然ダメだった)、即座にフランス国立管と常任格の第一招待指揮者契約(チェリビダーケ、バーンスタインの後任)、とマゼールがヨーロッパに復帰する切っ掛けになったのがリバーマンだったんです(その後、フランス国立管音楽監督>ウィーン>バイエルン…)。だから、リバーマンから是非!と頼まれたら、彼氏断れなかったんだよね。ただ、クリーヴランドはそのまま居続けだったから(それに、確か、フィルハーモニア管の第一招待指揮者も兼任だったよね)、それこそ殺人的なスケジュールで、毎日パリとロンドンを往復してるなんて日常茶飯事でしたよ。フランスと英国では時差が1時間あるじゃない。そいつを利用して、早朝フランス国立でリハーサルをやって、昼休みにロンドンへ飛び、あっちで午後別の仕事をこなした後でパリに舞い戻り、夜本番…なんてしょっちゅうでしたよ。
 ただ、それにもまして本当にすごかったのは、少なくともこの当時(フランス国立管就任から1980年代初め頃まで)のマゼールは乗りに乗りまくって奇跡的にすごかったですねえ。上に出てくるベルリオーズ《ロメオとジュリエット》なんか、その中でも最も傑出したものの一つでした。これはザルツブルクに持っていってますね。そうそう、この時期に限って言うなら、ジャン・マルティノンなんてもんじゃなかったですよ(>助六さん…はこの人の実演に間に合った?…)。ただ、日本にメシアンを持っていくという話は多分、マゼールの記憶違いで、彼氏、廃兵院(レ・ザンヴァリッド)でやったメシアン生誕何十周年記念だかの《Et Expecto...》と混同してるみたいだよ。あれも、その記念行事で振ったブーレーズ、小澤、アンタル・ドラッティなんかにもましてすごいものでしたが…、この時期のマゼールがいかにすごくて、またいかに滅茶苦茶だったかは、僕のサイト「Kinokezn2」の「インタビュー集成」内の「小澤征爾とフランス国立管弦楽団〜小澤征爾を語るフランス国立管弦楽団楽員たち」という項で、ヴァイオリンの破魔澄子さん、チェロのエルヴェ・デリヤンさんとトロンボーンのジャック・フールケさんがたっぷりやってます(1)。
==============
(1):これは『小澤征爾NOW』音楽之友社、《ONTOMO MOOK》1994)というのに小澤関連の箇所だけ摘出して載せたものですが、サイトに置いてある全文版は小澤以外の話の方が多いんです。↓からどうぞ。
http://perso.orange.fr/kinoken2/intv/intv_contents/ozawa_onf.html
マゼールのインタビューは以下↓から…。ただし、指揮者でなく作曲家としてのマゼールへのインタビューで、質問中マーラーに関する質問は、ご存知 Orfeoさんからのリクエストによる質問事項でした(Orfeoさん、憶えてる?…)。
http://perso.orange.fr/kinoken2/intv/intv_contents/intv_maazel.html
===============
 上の時差を利用してロンドンとパリ往復という話は破魔さんのインタビューにも出てきます。…いや、実は僕もその後、同じように時差利用でロンドンとパリを往復してたジョン=エリオット・ガーディナーにインタビューをすっぽかされたことがあるんだ。シャトレ座で朝英国バロック・ソロイスツとのリハーサル後の昼休みにメシを食いながらインタビューと決まっていたんですが、1時間前くらいに行ったら、リハーサルなんかとっくのとうに終わってて、いないんだよね。ええーっ、いないの!…なんて、なにせ当夜が本番だってんで、プレス担当が大慌てでホテルへ電話したり、劇場の色々な箇所を探したり、上を下をの大騒ぎだったんだけど、楽員に尋ねたら、時差を利用してロンドンへ飛んで、あっちでフィルハーモニア管とのリハーサルをやってるんだって!…。夕方戻ってきて、その晩が確かシャトレ座の本番。一度なんか帰りの飛行機が遅れたもんで、定刻に戻ってこれず、オペラのゲネプロを助手が振ったなんてことがあったよ(笑:セミ・ステージ形式《ティート…》の時)。
 蛇足。記事に出てくる「ジャニンヌ・ライス」さん〜本当の読みは「レイス」〜パリ国立歌劇場のコレペ責任者で、「ライス」というのはカラヤンのドイツ語読みなんです。というのも、彼女はカラヤンお気に入りのコレペで、カラヤンが録音したフランス・オペラのほぼ総てで歌手たちの仏語コーチをやってるのが彼女でした。僕のではジェフリー・テイトのインタビューに出てきますね。

 でも、ホント、リバーマンも言う通り、あいつら、なんであんなに稼ぎまくらなきゃならんのかねえ?…。マゼールなんか、シャルル・デュトワみたいに鄭京和とか、アルゲリッチとか、NYの有能弁護士と再婚したモントリオール大学の女流経済学教授とか、モントリオール響の首席ヴァイオリンとか…離婚した奥さんの一連隊にしこたま慰謝料をふんだくられてるもんで、殺人的スケジュールをこなさないと食ってけない!(ホントか?…:これは上のインタビューの時楽員の誰かさんがナイショで教えてくれたんです。収入が自分の手元にはほとんど残らないんだって)…なんて悲惨なことはなかったはづなのにねえ…。ジュリーニさん(ライモンディさんをレコード・デビューさせたカルロ=マリアさんのこと)なんて、パリ管に客演に来ると、2週間くらいはゆっくり落ち着いてましたよ。私はパリの街を散歩するのが好きなんだ…とか言っちゃってね(笑)(2)。
===========
(2):こちらについては orfeo.blogの以下のコメントをご参照ください。
http://orfeo.cocolog-nifty.com/orfeoblog/2006/04/post_bd95.html
ずっと下の方のコメント(投稿 きのけん | 2006/04/19 4:26:12)のそのまた下の方です。
============
 そうそう、デュトワっていえば、一度フランス・ミュージック局の次シーズンのプログラム発表を兼ねた記者会見+昼食会に招かれたことがあるんですが、デュトワさんなんかは当然お偉方が集まるメイン・テーブルで局長とか文化省のエライさんたちと一緒のテーブルなわけ。僕なんかはもちろん一番末席で、プレス担当や事務員など下っ端の若い女の子たちだけのテーブルに追い遣られていたわけよ(こっちの方が断然楽しかったけどね)。デュトワさん、あんなとこに座らされて退屈してるなあ、ヘッヘッヘ…なんて思ってて、しばらくしてハッと気が付いたら、なんと僕の隣の席にデュトワが座ってるじゃないですか!…。そうなんだよねえ…、僕のテーブルは下っ端の若い女の子ばっかり、爺さん婆さんのお相手にウンザリしたデュトワさんがちゃっかり、こっちのテーブルに移って来ちゃってて、女の子たちと楽しそうにやってんだよねえ…。もう、あいつ、ホント!(笑)…。
きのけん
by lきのけん (2006-06-17 14:05) 

keyaki

きのけんさん、目ぱちくりの愉快なコメントありがとうございます。
>パリで《ペレアス》....これがが「超」の字の付く名演
リーバーマンが、マゼールに決めたのはこの《ペレアス》の成功によるものだそうです。

>「ジャニンヌ・ライス」さん〜本当の読みは「レイス」
最初は「レイス」にしてたんですけど、ライスって書いてあるのをどこかで見て直しましたが、また「レイス」に直します。なんかアメリカのライス長官のあのオッソロしい顔がちらつきますから。

ジュリーニさんって、来るはずないと思って、招待したら来ちゃってびっくり、、というきのけんさんの話がありましたね。ジュリーニさんのほうが、めずらしいタイプかもしれませんね。

歌手にしても指揮者にしても一流、有名になればなるほど世界中を飛び回っている、、というか飛び回ってないと忘れられちゃうってことなのでしょうね。
離婚なんかしているといくら稼いでも全部元の奥さんに持って行かれちゃう、、って、誰でしたっけ、メトで指揮していて逮捕されちゃった指揮者がいましたよね。
シコフなんかもアメリカで歌うと、ほとんど元の奥さんにとられちゃうんで、ヨーロッパで歌っているなんてはなしをきいたこともあります。
by keyaki (2006-06-17 14:51) 

きのけん

 …でも、そういうことをしない人だっていたじゃない。カラヤン!…。ベルリン、ウィーンとザルツブルクだけ…とか。ジュリーニさんも晩年はウィーン、バイエルン放送、パリ管とコンセルトヘボウだけ…とか。クライバーとか…。ただ、連中は自分が音楽監督を務める団体にスター指揮者を呼ぶのに、交換条件で自分もそいつのところに客演しに行ってやらなくてはならないから忙しくなるんだよね。だからクライバーなんか常任を厭がったんだね。
 デュトワさんの話は僕の録音テープには入ってますが、これは出さないでくれと念を押されたもんで、インタビュー全文版からも削ってあります(もう時効だよね)。でも、あいつ、よく浮気してる暇があったもんだよね。一度なんか、N響の欧州ツアーの最終日、アントワープの公演が終わったその足で飛行機を乗り継いでモントリオールに帰り、飛行場からそのまま録音会場に直行して《トロイ人》の録音をやるんだって!…。あんなことをするから皆、体をこわしちゃうんだね。あの世代のスター指揮者って、今もう全員ガタガタでしょう。ブーレーズ爺さんだけピンピンしてるのが不思議だけど。
 そうそう、マゼールのあの《ペレアス》には正直言って驚かされました。リバーマン自身、あいつにあんな演奏ができるとは夢にも思ってなかったかもよ。うん、そうだ、そうに違いない!だから余計びっくりして、評価が上がったんだよ、きっと…。
 それが数年後の再演の時はガタガタ。最初は頑張って振ってたのに、一公演、主役のイレアナ・コトルバシュの代役カーレン・アームストロングが例の長髪を垂らす場面で、いくら待っての舞台に出てこないのよ(あの箇所は無伴奏でオケが止まってる)。そしたら、それまで頑張ってたのに、ドスーンと椅子に座ってふんぞり返っちゃって、以後全部(その公演だけじゃなくて全公演)でれでれのヤッツケ仕事。あいつ子供みたいなところがあるよねえ…。あれには、もうまいったよ(笑)。いったん乗り始めるとすごいんだけど…。
 そうだ!あの時は悔しかったんだ。そのコトルバシュがすごく良かったのよ。彼女はそのまま居続けで次のクリストフ・フォン・ドホナーニ指揮《フィガロの結婚》(スザンナ)まで居残るはづだったの。そしたら、ウィーンで新演出の準備中だってんでウィーンが特別機を差し向けて迎えに来て拉致していきやがったんだ!(笑)。それでマゼールがつむじを曲げ、その次のドホナーニまで機嫌を悪くして、その《フィガロの結婚》ではスザンナが公演毎に変わるの。出てくる代役という代役全員ドホナーニの気に食わないわけよ。毎晩スザンナが変わるもんで、3公演くらいぶっ続けで行ったもの(苦笑)。ようやく最初から予定されていたルチア・ポップが来る日までつないで、その間出てきたスザンナは5人くらいいたんじゃないかな?…。こうなるとオペラ座支配人(リバーマン)も楽じゃないやね。
きのけん
by きのけん (2006-06-17 16:28) 

助六

>きのけんさん

私はマルティノンの実演には間に合いませんでした。70年代の仏国立管との一連のレコードは日本で評価が高く、私にもアイドルでしたねぇ。音の層を積み重ね、自在に明晰なパースペクティヴを按配していくような音楽作りが品もあり冴え渡っていた。日本では50年代のN響客演のストラヴィンスキーの衝撃とか上の世代の方から聞いてましたし、思いつくとフランス人ファンに訊ねてみてますが、聞いた人は一様に「フランス音楽ではやっぱりよかったけど」くらいで、それ以上のenthousiasmeはゼロだし、フランスでは忘れられかけてますね。この辺の事情はクリュイタンスについても全く同じですね。
きのけんさんは彼のマーラーなんかはお聴きになってますか?あと彼はパリ管の演奏会を振ったことはあったのでしょうか?

私もマゼールのディテールを抉っていくような「曲者」ぶりは好きです。80年代の初めと終わりナシオナルと2回やったマーラーの7番なんかはやはり良かったし、92年にパリ管とやった「海」と「祭典」なんかも燦然たるものだった。確かに80年代後半のナシオナルとの仕事は今ひとつのことが多かったですね。

オペラでは83年のヴィーンの「トゥーランドット」がオケを鳴らす力という点では、クライバーでしか聞いたことがないようなすごい音がしましたねぇ。あと96年のサルツの「エレクトラ」が鋭利かつ豊麗で素晴らしかった。

彼もこの頃は随分落ち着いた演奏を聞かせることも多くなったけど、小生はマゼールには、「円熟」などせず「曲者」でいて欲しいと思う方です。
by 助六 (2006-06-18 08:09) 

Orfeo

薀蓄のある話の途中で恐縮ですが、

きのけんさん:
>Orfeoさん、憶えてる?

そういや、そんなことがありましたっけね。
思い出しました。
相変わらず馬鹿な質問してますよね・・・(苦笑)
by Orfeo (2006-06-19 08:33) 

きのけん

>助六さん:
 フランス人というのは自国のオケの良さ、というか特質があまりよく見えていないんじゃないかと?…。パリ管にせよ、フランス国立にせよ、シカゴ辺りに似ればいいと思ってるところがあるよね。オペラ座管だけは少なくとも1970年代終わりくらいまではフランスの管弦楽の良さが未だ残っていたみたい。《ペレアス》でマゼールがそれを引き出しちゃったのに仰天したんだけど、そういや、その数年前パリ管でやったラヴェル《ダフニスとクロエ》(合唱入り全曲)にモロに感激した憶えがあるなあ…。あっ、これぞフランスの音!なんて…。あの人、そういう感覚持ってるんだよね。
 僕もマルティノンには間に合わなかったですが、ジョルジュ・プレートルやセルジュ・ボード、エマニュエル・クリヴィヌの最良の時にはああいう感じが確かにあったと思います。僕のロレンス・フォスターのインタビュー(1)にそのような話がちょこっと出てきますね。クリュイタンスは、こっちの人はむしろベートーヴェンとかワーグナーで評価するみたいだよね。確かに、ベルリン・フィルがカラヤン以前に初めてベートーヴェンの全集を録れたのがクリュイタンスとだったよね。そうそう、クリュイタンスがすごく良かった…というのはジャン=クロード・マルゴワールさんからしこたま聞かされました。彼氏、パリ音楽院管のオーボエ奏者として一緒に日本公演に行ってるんだよ。学校出たてだったから余計感激したんじゃない?…。僕がパリ管を聴き始めたショルティ時代には未だ残ってて、オーボエをモーリス・ブールグに譲って、イングリッシュ・ホルンを吹いてました。

(1) http://perso.orange.fr/kinoken2/intv/intv_contents/intv_foster.html

 …そうそう、マルティノンのマーラーが意外にめっけものだったという話は聞いたことがあります。誰だっけ?…マルク・ヴィニャルさんか、アンリ=ルイ・ドゥ・ラ・グランジュさんのどっちかから…。1960年代初めにパリでやったマーラー・フェスティヴァルで、クレンペラー、ホーレンシュタイン、ジョルジュ・セバスティアン、カラヤンなんかに混じって振ったらしいんだけど、全然遜色なかったそう。
 マゼールとフランス国立管との仕事は、彼がウィーンを掛け持ちするようになった時点で終わったと思います。その後はほとんど聴いてないんじゃないかな?…。あまりに仕事風になっちゃって…。

>Orfeoさん:
 いや、あのマーラーについての質問は大当たりだったんです。しょぼしょぼの目で最初半分寝てたマゼールが、パチっと目を開いたのがマーラーを持ち出した辺りからだったんです。ブルックナーで切り返してきたのには、さすがにビックリしたけどね(笑)。僕は彼のマーラー、助六さんがお聴きになった七番、その前の四番も含めいまいち感心したことがなかったもんで、あの質問は思いも及ばなかった。そういや…という感じでしてみたら、大当たり(笑)…。そりゃ、作曲家としちゃライヴァル意識くらいは持つでしょ。「君の言いたいことはわかる」…の箇所、随分考えて、相当含蓄があったよ。もっと突っ込もうと思ったら、ブルックナーに逸らされちゃったんだ。
きのけん
by きのけん (2006-06-20 00:30) 

keyaki

助六さん、きのけんさんのコメントがもぐっちゃいましたので上げます。
by keyaki (2006-06-24 20:18) 

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