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ロージー監督:ドキュメンタリーOPERA-FILM《ドン・ジョヴァンニ》 [《ドン・ジョヴァンニ》FILM]

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージーリーバーマンは、オペラ映画《ドン・ジョヴァンニ》のキャストと指揮者を決め、1978年6月末〜7月にかけて録音をすませました。そのときの様子は2006-06-15の記事にあります。
映画監督は、最初はパリ・オペラ座とも縁の深いパトリス・シェローに白羽の矢をたてましたが、断られました。(後日シェローの談話もご紹介します)そこで、ダニエル・トスカン・デュ・プランチエは、ジョセフ・ロージーに話を持ちかけたのです。ロージーがこの依頼に応じた理由は、■モーツァルト ■「ドン・ジヨヴアンニ」の主題 ■パラディオの建築、この三つの組み合わせに魅力を感じたからということです。
まあ、かたい話はおいておいて、ドキュメンタリーOPERA-FILM《ドン・ジョヴァンニ》で語られている、この映画にかかわった人達のロージー監督に関する談話をご紹介します。このドキュメンタリーのために2005年9月以降順次インタビューしたものです。
ポール・マイヤーズ(CBSプロデューサー)談:
ロージーは変わった人でした。彼はレコーディングに毎日立ち会って、私について回っていましたが、ある時こんなことを言ったのです。『モーツァルが男色家(少年相手の)だったという証拠を見つけられないか。』私はそういうことはないと思うと言いましたが、彼は、『いや、絶対に間違いない、そういう記録はないのか。何か本を見つけることはできないか』と言います。私は、ほんとにできません。残念ながら、彼はそうではありませんでしたと否定しました。同じ頃、ロージはパリでヘラルド紙のインタビューに答えて「アメリカの映画スターのジョン・ウェインも間違いなく男色家だ。歩き方を見ればわかる。」と言っていました。こんな風に、レコーディングをやっている間、とても変化に富んだ経験をしたものです。
ある時、キリ・テ・カナワが、コントロールルームにやって来て、スタッフを指差し、「あなたが責任者?!」「あなたが責任者?!」とかなりの剣幕だった。ロージー監督が、歌のことについて、なにか言ったらしく、あなた達にいろいろ言われるのはいいが、彼に言われる筋合いはない、ここは誰がリーダーかわからない....とかなり怒っていたこともあったりしました。
ゴーモン会長談:
ヴィチェンツァで、ロージーが予算と立て込んだスケジュールを考えると、1幕しかやれないと言ったのを覚えている。だが、2幕あるわけだ。第一に、映画にも、オペラにもある制約条件が理解されていなかった。音楽監督も映画監督も、オペラと映画を結びつけることがどんなに複雑なことか想像もしていなかった。各々制約条件が違うのだ。※1
トスカンはセットに行ったとき、ロージーがどんどん非妥協的になっているのを目の当たりにした。彼はロージーに「あなたが監督だ。これはあなたの映画だ」と言った。ロージーはじきにこの作品を把握し、彼自身の希望を強烈に組み入れた。彼は※2レチタティーヴォをすぐに撮影したいと思った。

※1:当初の予算は1200万フランを超えることはできなかったのに2000万フランまでいってしまい、撮影日数も4週間は超えられないはずが、最終的には四十四日、週六日撮影として七週間を少し超える実働日数がかかった(今の金額で約3000万ユーロ)

※2:レチタティーヴォのパートはすべて生で同時録音している。プレイバック方式の撮影から少しは離れたかったし、直に演技をつける唯一の機会だったわけで、そのせいで全編にわたるパフォーマンスによい効果をもたらすことにもなった。さらには、歌がない演技だけの時間を長くとりたかったことと、セリフの内容を聞きとり可能にしたかったということがあった。オペラ歌手というのは、いかに人より早口でレチタティーヴォがこなせるかを誇りにすることがしばしばあって、どの音符もどの音節も完壁に発声するにはするが、聴くほうにすれば何を言っているのか分からなくなるのだ。しかし同時録音した最大の理由というのは、レチタティーヴォでは、プレイバックした音楽に満足できるだけの正確さで口の動きを合わせることが、誰にもできないということだ。彼らの実力不足というのではなくて、とにかくスピードが速すぎて難しいのだ。(Josph Losey 追放された魂の物語より)

ルッジェーロ・ライモンディ談:
ええ、ロージー監督のことはよく覚えています。指示もされました。しかし、それが何だったか覚えていません。彼はいつも感情とか情緒とか、どう動くべきかとか、カメラに注意を向けろとか、言っていました。
実際のところロージーは、耳元でささやくので、彼の息しか聞こえなかったりで、何を言っているのか理解するのが困難だった。
撮影現場ではいろいろおもしろいことがありました。私たちはドン・ジョヴァンニの剣がないままリハーサルを始めました。剣がなかったのです。見回しましたが、影も形もありませんでした。それで、剣なしで演じざるをえませんでした。騎士長を前にして、いったい何ができると思う???....、私は「ナイフをください」と言いました。ほんとにどうすることもできなかったんです。誰かがキッチンナイフを手渡してくれました。誰一人気がつかなかったんだから、あきれたものだった。
ミシェル・セイドゥー(エグゼクティヴプロデューサー)談:
2〜3時間でオペラは終わりますが、映画はワンセットで8〜9時間耐えなければなりません。それは、二つの世界の闘いでしたが、私はロージーが勝ったと思います。
ルッジェーロ・ライモンディ談:
ロージー監督は我々が歌いながらいつもやっていた顔の表情をもの凄く気にしていた。目を剥くとか.... いちいち大げさだったから。こういうことをカメラの前では絶対やるべきではないのだ。ロージー監督は常時我々から目をはなさないで、じっとにらんで、見張っていた。(笑い)
ミシェル・セイドゥー(エグゼクティヴプロデューサー)談:
俳優(歌手)たちは、進歩し、文字通り変わりました。ライモンディは変革を遂げました。彼はそれまでの殻を脱いで、俳優に変身しました。これこそが、この後彼がオペラスターになった理由です。彼はいくつか、他の映画もやりました。歌わない役を演じることができました。彼は突如自分の才能を意識したのです。
ルッジェーロ・ライモンディ談:
最後に、騎士長が入って来て、テーブルが壊れたとき、ロージー監督が、水の入ったグラスを持ってきて、「さあ、飲んで」と言いました。「何故、彼は私に水をくれるのだろう」と思いましたが、彼を喜ばせるために飲みました。それは100%のウォッカでした! あの場面の私の演技は最高でした。(笑い)

写真右上:ドンナ・アンナの寝室に忍び込んだドン・ジョヴァンニが、彼女に追いかけられて逃げてくる場面にこの建物、パラディオのバジリカが使われている。この下で、騎士長を殺してしまうというわけ。
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助六

>依頼に応じた理由は、■モーツァルト ■「ドン・ジヨヴアンニ」の主題 ■パラディオの建築、この三つの組み合わせに魅力を感じたから

ということは、パッラーディオを使うことを思い付いたのはトスカンという意味でしょうか?

モーツァルトとパッラーディオの組み合わせって思い付きそうで、結構思い付きにくいのではないかと思います。

モーツァルト自身は子供の時1771年第1回イタリア訪問の帰途、ヴェネツィアからサルツに戻る途中、同地の司教に引き止められてヴィツェンツァに寄ってますが、1日間だけですから、バジリカの前くらいは通ったでしょうけど街には殆ど注意してないでしょうね。

その15年後にゲーテがパッラーディオ見物目的でヴィツェンツァを訪れるけど、ゲーテがパッッラーディオに興味を持ったのは、親父からイタリア旅行の話を聞いたのと、パラディアン様式で建てられたドイツのヴェルリッツ城を見ていたせいらしいから、モーツァルトのイタリア旅行時には、パッラーディオの威光はアルプスの北の独語圏まで及んでいたということですが、教育パパのモーツァルトの親父もそこまで教養はなかったかも。そういえばサルツにパッラーディオ様式の建物は事実上ありませんね。

小生も一時期、ブルネッレスキやアルベルティほどじゃないにしても、パッラーディオまあまあ好きで見て廻ってたことがあります。ヴェネツィアのイル・レデントーレや、マーゼルのヴィラ・バールバロ、それにヴィチェンツァのロトンダはやはり素晴らしかった。写真のkeyakiさんは、バジリカのバルコニーですよね。この建築、映画にも出てきましたね。ロトンダは勿論レデントーレも多分撮影に使われていたと思います。映画、もう最後に見てから長いので確信はありませんが、ロージーは多分いくつかのパラーディオのヴィラを自在に組み合わせて撮影していたような気がします。ロトンダの隣のパッラーディオ作ではないヴィラ・ヴァルマラーナっぽい映像もあったような。
ロケ地一覧みたいな資料があったら、ご紹介下さい。みんなで探訪トゥアーでも組みますか(笑)。
by 助六 (2006-06-18 07:59) 

keyaki

パラーディオに絞ったのは誰でしょうね。あとでその談話も取り上げますが、リーバーマンの事務所で、シェローが、「ヴェローナからヴェネツイアの間に美しい場所が幾つもある」と話したそうです。ですけど、ヴィラロトンダのことは念頭になかったしはっきりした構想があったわけではなくて、思いつきで言ったそうです。

撮影に使用したのは、ヴェネツイアのレデントーレ教会の外部、ヴィチェンツァでは、バジリカ、オリンピコ、ロトンダ。ロトンダはロケ隊の基地、事務所として使い、映画の中ではドン・ジョヴァンニの住む館として設定した。それから、ヴァルマラーナ宮殿の庭園を使った。他にもファンツォー口にあるエモや、カルドーニョなど、いくつかの館を組み合わせて撮影した。パラーディオ設計の建築にあくまでも固執したわけだ。どうやらあまりに純粋主義に走りすぎてしまっている。映画の中でただ一つパラーディオでない建造物があって、それはムラーノ島のガラスエ場だ。
と上にリンクした本でロージーが語っています。

私の写真はおっしゃる通りバジリカのバルコニーで説明も加えておきましたが初っ端のドンナ・アンナに追っかけられて、この下で騎士長を殺しちゃいます。
行き当たりばったり旅行で、ヴェネツィアに行く途中、思いついてヴィチェンツァに下車、ヴィラロトンダはすでに閉まっていて中に入れませんでした。

>ロケ地一覧
どこかにありそうですね。
by keyaki (2006-06-18 09:45) 

きのけん=CineKen2

 もう一つ絶対忘れてはならないのがヴィチェンツァのオリンピコ劇場です。実はあのフィルムの中で僕が最も魅力を感じるのがオリンピコ劇場のあの迷路みたいな常設舞台内で撮影した場面なんですねえ。あすこに較べるとパラディオ宮はただ単なる静的な美術品としか見えないなあ…。オリンピコ劇場の常設舞台は空間そのものが演劇的なんだよ!…。あっちを使おうと思い立った人こそ天才的だ!…。
 それからシェローは当時この映画を撮ってる余裕はなかったでしょう。なにせ、バイロイトの《指輪》をやっている間はあっちにかかりっ切りで、ヴィラルバンヌの国立民衆劇場総監督という地位にある人が自分の劇場では演出をただの1本も発表していないんだからね(正確にはジャン=ポール・ヴェンツェルのミニマルな日常劇《アゴンダンジュから遙か》が1本だけある)。バイロイトに行ったっきりで、《ルル》だってあっちで準備したんだ。だからあっちに出ている人たち(《指輪》だけでなく当時あっちに出てた人たちも)が大挙してあれに出ているでしょう…。それに映画が2本。《ミス・ブランデッシュの蘭》なら辛うじて《ドン・ジョヴァンニ》に繋がるところもあるでしょうが、《ジュディット・テルポーヴ》じゃあねえ…。大昔にモリエールの《ドン・ジュアン》の演出があることはありますが…、あれは学生時代のものだし…。

 今夜、シネマテークでリチャード・フライシャーの《見えない恐怖》(1971)を見てきたところです。やけに綺麗な絵だなあ…と感心しながら見てたら、案の定キャメラがジェリー・フィッシャー、《ドン・ジョヴァンニ》を撮ったあの彼氏だったんです。リチャード・フライシャーという人はそれほど自分の確固としたスタイルを持った人じゃないんで、キャメラマンの資質がモロに出ちゃうんだよね。ちなみに《ミクロの決死圏》(1966) を撮ったのはアーネスト・ラスロ。言わずと知れたフリッツ・ラングや、アメリカ時代のジョゼフ・ロージー、そしてロージーの助手だったロバート・オルドリッチ付の名キャメラマンなんですよ。あの手のフィルムとして割と良くできてるのはそのためだね。こっちの方は晩秋の萌えるような紅葉の森の木洩れ陽に、落ち葉が風に吹かれて散乱するような箇所のやたら綺麗なこと!…。《恋(伝令:The Go-Between)》(1971)に出てきたような英国風マナーの真紅の壁紙を貼った一室とか…。このキャメラはまさしく《ドン・ジョヴァンニ》を想起させるキャメラでした。ちなみに《見えない恐怖》の主役ミア・ファーロウはジョゼフ・ロージーが発掘して《秘密の儀式》(1968)でエリザベス・テイラー、ロバート・ミッチャムと共演させちゃった女優さんですわね。そしてこのフィルムのキャメラがまたまたジェリー・フィッシャー…とくるんだ。繋がってますねえ…。
きのけん=CineKen2
by きのけん=CineKen2 (2006-06-19 09:04) 

きのけん

助六さん:
>パッラーディオを使うことを思い付いたのはトスカン?

keyakiさん:
>パラディオに絞ったのは誰?

 僕にはロージー自身から来ているのが明白なように思えますがねえ〜。《エヴァの匂い》(1962)のロケ・ハンティングではあの辺りにも行ってるに違いない。ひょっとしたらあすこを使いたいと思ったかも知れない…。というのも、スタンリー・ベイカーの別荘こそトルチェッロ島という設定だし、ロトンドそのものが出たかどうかは憶えてませんが、《ドン…》でも重要な役割を果たすヴェネツィアからヴィチェンツァに通っている運河がちゃんとあのフィルムに出てくるんだ。あすこを船で行くまったく同じシークェンスなんてのも入ってるんだよね。
http://perso.orange.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/cineken2_losey/losey_60.html#eva
 それともう一つ。ちょうどこの映画の構想が立てられていた頃、ジョルジョ・ストレーレルが当時コメディー・フランセーズの第二劇場として使われていたオデオン座でコメディー・フランセーズの役者たちを使って演出したゴルドーニ《避暑地三部作》の舞台がちょうどあの辺りなんです。ヴェネツィアの市民があの運河を通ってヴィチェンツァ辺りに避暑に行く話。ストレーレル演出だから、リバーマンがあれを見てないはづはないんだよね。
きのけん
by きのけん (2006-06-22 17:18) 

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