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5.第2章:声の発展 [ L.Magiera著:RR]

4.第1章:召命(ピアノレッスン)の続き
声変り、他の家族達は、そのことに全く無関心だったが、それはチェーザレとルッジェーロの頭上に刃を向けてぶら下がっている正真正銘のダモクレスの剣にほかならなかった。しかし心配していたダメージはなかった。反対に、声変りによって少年の声は、更に強くなり音域が拡がった。そして、同様の効果は、怖がられている扁桃腺の手術によって生じることもあるようだ。医者はもっと先に延期しなければならないと考えているようだが。

 共通の音楽的情熱によっても、お互いに非常に強く結びついていた父と子は、非常に珍しい方法、つまり夜中に騒いで告発されたことによって、これらの改善を悟った。

 この頃から、ルッジェーロは、テアトロ・コムナーレの公演に父と一緒に行くようになっていた。
 小さなルッジェーロを劇場に連れて行って、チェーザレは彼にボローニャの音楽の歴史を詳しく話して聞かせた。トスカニーニの殴打事件のエピソードとか、彼が個人的に援助した若いヴェリズモ派オペラの数々を上演したこと、ピエトロ・マスカーニ、ジャコモ・プッチーニ、ウンベルト・ジョルダーニ、フランチェスコ・チレアの名前があげられた。そしてレオポルド・ムニョーネ、ジーノ・マリヌッツィ、エットーレ・パニッツァなどの指揮者の名前、トーティ・ダル・モンテ、アウレリーノ・ペルティーレ、リッカルド・ストラッチャーリのような歌手は、父の情熱的な話によって今もなお活躍しているかのようにルッジェーロに思わせた。

 10才になって、彼の人生ではじめて、オペラの公演に連れて行ってもらったが、それは忘れられない感動をもたらした。1951年11月30日の夜、ジュール・マスネーの《マノン》で、オリヴィエーロ・ファブリッティーズの指揮、エレーナ・リッツィエーリとチェーザレ・ヴァレッティだったが、それは、彼等の大のお気に入りのレコードの中の一つでもあり、ロマンチックな登場人物デ・グリューを繊細に歌いほれぼれするほどすばらしい演奏だった。

 ライモンディ親子は、他にもたくさんの公演に行った。たとえば、ティート・ゴッビ、ボリス・クリストフ、ジーノ・ペンノ、カテリーナ・マンチーニで《シモン・ボッカネグラ》、ヴァレッティとアルダ・ノーニの《愛の妙薬》では、あの手荷物の紛失の出来事以来、家族と本当の友達付き合いをするようになっていたモリナーリ・プラデッリの指揮だった。

 また数えきれないほどの交響曲と室内楽のコンサートにも行った。ニキタ・マガロフ、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、アーサー・ラモー、アルフレード・コルト等々名前をあげることができる。

 ところで、チェーザレとルッジェーロは、悪い習慣があった。テアトロ・コムナーレから自宅のゼッカ通りの帰り道、ボローニャのあちらこちらにある200年も前の中世の建物のとても美しい通り、マッジョーレ通りの大きなアーケード(回廊)の中を歩きながら、彼等はオペラに感激して、最も重要な場面を説明するために歌ったりした。
 そのことが、毎回遅い時間に繰り返し起きたので、安眠を妨害され、チェーザレを知っていたその地区の住民の誰かが、夜間に騒いだことを警察署に報告した。
 このことは、彼の知り合いだった警察署長によって穏便に警告されていた。そのため二人は、ほとんど歌のメロディーを口に出さないように自粛していた。

 しかし、驚異的な力強い響きの歌唱を聴かせた、あのジュリオ・ネーリのボイトの《メフィストフェレ》の公演の帰り道、チェーザレとルッジェーロ親子は、パラッツォ・イシンバルディの側を歩きながら、まだ興奮さめやらず、感想を述べ合った。
 「今日のバスは最高だったね、ルッジェーロ。こんな力強いバスは今まで聴いたことがないなぁ」とチェーザレが切り出した。
 「本当にそうですね、パパ、でも"Ecco il mondo"の高音の"fa"が、ちょっとぶら下がり気味だったような....」
 「なるほど、お前は口うるさいことを言うんだね、......あの殺人的な音をお前に聞かせたい......」
 「パパ、ポケットに調子笛ありますか?」
 「もちろん」 
 「"fa"の音をお願いします」
 チェーザレは、調子笛を探して希望の音を吹いた。
 ルッジェーロは、大きく息を吸って、高音の"fa"の音を長く最高に力強く出した。それは、中世のアーチ型の天井の音響効果によって、リッツォーリ通りまで轟き渡った。
 二人は、正しい音か疑り深くなってお互いに顔を見合わせた。
 「パパ、その調子笛の音はあってるの?」とルッジェーロが尋ねた。
 「ああ、正確だよ。ということはもしかしたら......」
 「変声期が終わって音域が広がったということですね。万歳! 」そしてルッジェーロは、ますます、力強く正確で大きな声で"fa"のアクートを繰り返した。

 翌朝、警察所長が訪ねて来て、罰金の命令書を渡した。
 「まあ、なんということでしょう、チェーザレ。あなたとルッジェーロは、昨夜、どんないたずらをしたのかしら」とドーラはいぶかしげに言った。
 「やっぱり、言わなきゃだめかなぁ? 私の人生でこんなに喜んで罰金を払うことは絶対にないことです。」  ー第2章終わりー"ミラノでの最初の勉強"に続く Leone Magiera著"RUGGERO RAIMONDI"

※男の子の声変わりは、12才から14才位といわれています。
・アルトゥーロ・トスカニーニ:Arturo Toscanini 1867 - 1957
・ティート・ゴッビ:1915.10.24-1984.03.05 Br
・トーティ・ダル・モンテ:1893.06.27-1975.01.26 S
・アウレリーノ・ペルティーレ:1885-1952 T
・リッカルド・ストラッチャーリ:1875.06.26-1955.10.10 Br
・オリヴィエーロ・ファブリッティーズ:1902.06.13-1982.08.12 指揮者
・エレーナ・リッツィエーリ:1922.10.06-S
・チェーザレ・ヴァレッティ:1922.12.18-T
・ジュリオ・ネーリ:1909.05.21-1958.04.21


ライモンディの家は、ボローニャのチェントロ、Piazza Maggioreの近くの"Via della Zecca"にあります。(via Castiglioneにも店舗がある)この地域は、中世の町並みが残っていて、建物の側面にアーケード(柱廊)があり、大きめの建物は中にも通り抜けのできる回廊があります。こういうところで大きな声を出すと住民の眠りの妨げになるので、騒ぐのは禁止されているということです。今で言うところの迷惑防止条例ですね。(上の地図を参考にして下さい)


※2002年来日時のインタビューで、ジュリオ・ネーリについて語っています。とても印象に残った歌手の一人だったようです。
「音色の美しさがイタリア歌手の特徴でもあります。ーーーシェピはピンツァに近い非常に暗い音色を持っていましたし、ジュリオ・ネーリというフィレンツェ出身の2メートルの長身のバス歌手の暗い音色も忘れ難いものでした。バスの音色というのは、ドラマティコとカンタービレと、その上のバス=バリトンに分類されますが、ネーリはドラマティコ、シェピはカンタービレ、僕ははじめからバリトンの役も歌えないことはないバス=バリトンの声だったのです。」(國士潤一 音楽之友)


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コメント 2

euridice

男の子は声変わりがうれしいらしいですね。大人になったって感じで。でも、相当関心がないと気がつかないのか、それとも、あまり変わらない子もいるのか、息子たちの声変わり、興味も関心もありませんでした。

声変わり関連で、前の記事TBします。
by euridice (2005-11-06 08:08) 

Sardanapalus

罰金の話、前に読ませていただいたときも思わず笑ってしまいましたが、何度読んでも可笑しいですね。あのかっこいいパパの嬉しそうな顔が目に浮かびます。
by Sardanapalus (2005-11-06 10:06) 

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