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RRのエピソード:声楽授業(12)ボローニャ音楽院-1- [ L.Magiera著:RR]

8月18日の記事の続き。
1961年19才の時のことです。ルッジェーロは、大好きなローマを引き払ってボローニャに戻ったようです。ここで、レオーネ・マジエラと出会います。文中で『私』というのはマジエラです。(マジエラ氏のことは8月21日の記事をどうぞ)

はじめてルッジェーロ・ライモンディに会ったのは、私が26才の頃である。
私達の出会いは、ボーローニャ音楽院の第14教室、思い出せないほど昔の声楽の特別な個人レッスンの時間だった。私は、数年前に、大学教授の国家資格を獲得して、このような若さで勤めていた。
ボーローニャ音楽院は、チェントロ(街の中心)の"Due Torri"から、100メートルのところにある、古くて荘厳な建物で、かつては、聖アウグスティノ修道会の教会と修道院だったが、1804年にナポレオン・ボナパルトによって音楽学校になった。主な建物は当時のまま残っている。
非凡な音楽家達が、これらの教室で教えたり学んだりしたのである。ロッシーニは、15年間顧問だったし、ドニゼッティは多くの重要な自筆の楽譜を残した。隣接する市立図書館には、「セビリアの理髪師」の完全な総譜も保管されている。

私にとって、この音楽院で教えることは非常に名誉なことだったし、落ち着いた重厚な雰囲気が好きだった。朝早く目が覚めた時は、8時に授業が始まる前の数時間、私の教室の古いグランドピアノで勉強するのを習慣にしていた。
私が夜明け前に、ベルを押す度に、用務員のイネスは、驚いた。彼女もすでに、回廊の掃除をして働いていたのだが、、。暗がりの中、顔の輪郭とか体つきでは見分けがつかなかったので、声の響きによってお互いを識別した。
その建物の静穏を妨げないように、電気をつけないで用心深く階段を上がって、教室に入り、ピアノの蓋を開けて、長い夜の沈黙から音楽院を目覚めさせるように、すべての調のスケールとアルペジオを中断することなく弾き続けた。
声楽の教育は、いつも、私にとって興味ぶかいものであったが、若い音楽家である私の野心を満足させるには充分ではなかった。ピアノに対する情熱は心の中にいつもあった。それに、私は、変化に富んで、好奇心を呼び起こすピアノの音は、歌の解釈に効果的ではないかと考えていた。しかし、一瞬たりとも、私の理屈は、貧弱な才能しか持ち合わせていない私の声楽の生徒達に対して、何の効果もなかった。
私の両手が鍵盤の上を滑らかに往復しているうちに、夜明けの最初の光が、ボイトの「メフィストフェレ」の初演の歌手Erminia Borghi-Mamoの美しい顔を照らしだした 。無名だが才能のある画家によって描かれたこの絵は、奇妙な魅力をはなっていた。朝日に照らされたBorghi-Mamoの絵を見て、マルゲリータの愛と死の歌をすばらしい声で歌い始めることを空想していた。

やがて8時になり、若い女子学生アーダが教室にやってきた。日常の現実に引き戻され、私の奇妙な幻想は消え去った。
アーダは、優雅なブロンドで、幻想的な目をして、しかも性格も穏やかだが、残念なことに、声は、完全に容姿の気高さとはかけ離れていた。彼女はケルビーノのアリア"Voi che sapete "を歌い始めた。この無駄な努力を聴くことは、我慢の限界だった。しかし、今朝は、私のいつもの怒りは中断された。

扉が2回ノックされて、イネスが扉をカチャっと開けた。「マエストロ、教授会が始まります」と勤勉な用務員は、知らせに来た。それを私は完全に忘れていた。恐らく、この失念はフロイト学説のなにかだった。まだ、年長の著名なイタリア音楽界の同僚によって評価されるような成果を上げていないこともあり、教授会に出席したくない気持ちがあった。

この会議が行われるサラ・ボッシの中で、半端ではあるが私と話をするのはマルチェッロ・アッバードだけであった。彼は、ピアチェンツァ音楽院で、私の作曲の試験の時の委員長だった。
もちろん、音楽院では、他の若い人達との熱心な交際があった。頭角を現しつつあるフルート奏者Giorgio Zagnoni、ヴァイオリンの新星Cristiano Rossi、歴史家で作家のAdriano Cavicchi、または、私のクラスの優秀な仲間Tito Gotti、Bruno Zagni、Giovanni Bartoli。
(略)
マルチェッロ・アッバードは、習慣的な挨拶の後、「おめでとう、同僚」といつもの丁寧さで口を開いた。
「私はレスト・デル・カルリーノ(ボローニャの地方新聞)で、あなたが、テアトロ・コムナーレの合唱指揮者に任命されたことを知りました・・・」
私は、彼のジャケットのポケットから突き出ているその新聞を見せてくれるように頼んだ。
「私はすでに読みましたので、どうぞ。とにかく頑張って下さい!」
その記事は、無名のコラムニストが、私の乏しい、不十分な経歴を大げさに説明して、その上大きな写真入りで掲載していた。
サラ・ボッシの薄明かりの中の席に座り、代理の学長リディア・プロイエッティの「今日の議案」を読み上げる声を上の空で聞いた。会議が終わり、彼女が私の側を通った時、はじめて私の存在に気づいたかのように、学長室にすぐ来るように命令した。

私は、未だかつてsancta sanctorum(至聖なる所)に行ったことがなかった。不安の中、ジョアッキーノ・ロッシーニ、ジュセッペ・マルトゥッチ、マルコ・エンリコ・ボッシ、フェルッチョ・ブゾーニ等々、音楽院の音楽家達に導かれて、学長室を探し当てた。

プロイエッティは、マーガレット・サッチャーがそう呼ばれるより前に「音楽院の鉄の女」と呼ばれていた。頑固で独裁的な人物ということに誰も異論はなかった。彼女は、私をはじめて見るかのように、じっとみつめて、
「さて、あなたは、新しい声楽教師ですね。」と口を開いた。
彼女の後の壁には、いろいろな楽器に囲まれたアルフレード・カッゼッラを描いたフェリーチェ・カゾラーティの絵が掛かっていた。すばらしいが、私のお気に入りのBorhi-Mamoと絶対に交換してほしくないと考えたりしていた。
「さて、あなたは、新しい声楽教師ですね。」と彼女は、再度、強い口調で繰り返した。
ぼんやり絵を眺めていた私は、はっと我に返りとっさに答えた。
「はい、学長殿!」
「学長殿ですって、バカなことを言わないで!」
私は、肝をつぶした。この思いがけない言葉は、いかめしい厳格な部屋の中で、爆弾が爆発したように思えた。
「はい、学長殿! それでは、なんて言えば、、」
「私の名前はリディア、それで充分。もちろん、あなたはチェーザレを知っていますね」
「はい、リディア、もちろん、有名なローマの皇帝、、」彼女は突然笑い始めた。
「ちょっと、あなた、ボローニャでは、チェーザレといえば、決して皇帝のことではありません、、、」 ー続くー
長い文章をお読み頂いてありがとうございます。ルッジェーロ登場は、ちょっと先になります。
※地図をクリックすると、ボローニャ音楽院Conservatorioの場所がわかります。
※Marcello Abbado(1926.10.07- )ピアノ(クラウディオ・アッバードの兄)
※Alfredo Casella (1883-1947) ピアニスト,作曲家
※Felice Casorati(1883-1963)画家


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euridice

>アーダは、
ここまで活字にして、抗議されなかったのかしら??
偽名かしら? それでも、本人や当時の仲間には一目瞭然でしょうね。
by euridice (2005-08-29 07:22) 

keyaki

とても性格がいいお嬢さんで、いつも先生の暴言?に耐えていたようです。歌の道は無理だよ、と自覚させることも教師の仕事でしょうね。

>本人や当時の仲間には一目瞭然でしょうね。
アーダはきっと、「先生、私のこと美人だって書いてくれてありがとう」なんて言ってたりして。

なんとなくイタリアの音楽院には、こんな生徒は居ないような気がしてましたけど、音楽教師にしてみれば、めったに才能のある生徒にいきあたらないということでしょうね。だから、「声」のある生徒が来たりするとピエル・ヴェナンツイ先生のように舞い上がっちゃうんじゃないですか。
ペーター・ホフマンだって、ただでいいから、レッスンしてあげる・・ということでしたよね。
by keyaki (2005-08-29 08:26) 

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