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"冷たい手 Che gelida manina"の半音下げの移調は誤摩化し、賞味期限のつけかえみたいなもの... [テノールの高音]

★2009年7月25日追記:
 プッチーニが書いた楽譜通りに歌った"冷たい手"の録音がありました!  guuchokipantenさん情報ありがとうございます。
 さてこの録音ですが、実演ではなくピアノ伴奏なので、どういう経緯で歌ったのかは不明.........一応音声ファイルをアップしますが、超ヒストリカルですので、覚悟をして聞いて下さい。右下の楽譜通りです。
 半音下げは別問題として、今現在普通に歌われているものは、ラ♭→ドに上げるちょっと小さめに書いてあるoppureの楽譜の方なんです。こちらの方が、クライマックスにふさわしいし華やかになるし、テノール歌手としては、ラ♭→下降して終わるオリジナルよりこの"oppure"を選びたくなるということです。この録音がピアノ伴奏なのもうなずけます。これを舞台でやったら、拍手をもらえないだけでなく、レタスが飛んできたり、猫ちゃんが天井桟敷からパラシュートをつけて舞い降りて来ないともかぎりません。
 プッチーニが「ハイCに不安があるなら、わざわざ"oppure"で歌わんで、オリジナルで歌ってよ....」と言っても、そりゃ無理でしょうね。この録音を聞いての感想は、やっぱり、ここは『現場の知恵』の移調で対処して頂いて結構です....ということになるんだな....と思いました。でも、誤摩化されるのは嬉しくないですから、半音下げる場合は、堂々とプログラムにでも書いて下さいと言いたいですね。

1899年録音:Giovanni Cesarini(1860?〜??)
《ボエーム》の初演は1896年2月1日トリノ
***************************************************************
以下2009-01-09の記事です。

先日の記事、★ロドルフォのアリア"Che gelida manina"の半音下げ についての続きです。

 一般に歌曲は、声域に合わせて移調して歌うことが許されていますが、オペラのアリアは、オリジナルで歌うのが基本ということになっています。
 ところで、ドミンゴは「《ボエーム》と《トロヴァトーレ》《ファウスト》では、アリアを移調することにしている」と公言しています(テノールに要求される高音について)。とはいえ、舞台でのことで、録音ではオリジナルで歌っているようです。高音が出ないわけではないが、失敗する確率が高いので、舞台では避けているということでしょうか。しかし、《トロヴァトーレ》は、実際の楽譜にはない高音(ハイC)に上げて歌うのが慣例になっているだけなので、オリジナル通りに歌えばいいだけであって、移調するのはどうなんでしょうね。このへんが、クーラとは違って、ドミンゴのなんというか要領のいいところかな.....
 たとえば、『日伊コンコルソ概要』には、「オペラ・アリアは原則として原調とする。ただし、慣例的に移調されているものは認める」となっていますが、この《ボエーム》と《トロヴァトーレ》のアリアの移調は慣例的なものなんでしょうか.....そうは思えないんですけど、ご存知の方がいっらしゃいましたら教えて下さい。

 さて本題です。このアリア"冷たい手 Che gelida manina"の楽譜(右上の写真)を見ると『ハイC』のない旋律が書かれていて、その上に少し小さく書かれている楽譜に『ハイC』が含まれていますが、これは "opp."と書かれています。「oppure=または」という意味だと思います。ということは、プッチーニとしては、高音の出る歌手と出ない歌手どちらも歌えるようにしているということですよね。違うのかしら? なのに、移調して歌うということは、一種の誤摩化しだと思いますけど.....どうなんでしょう。もちろん『ハイC』命ではない私でさえ、このアリアは、ここのワァーっと高音に持って行くところがないと拍子抜けしてしまいますし、"Do"じゃなくても"Si"でもいいかな..なんですが、だからといって移調という方法で、音感のない者を騙してもいいのかい.....とも思うのです。いわば、賞味期限のつけかえみたいなもののような気がしませんか。どうせ味なんか分からないだろう、どうせ半音下げたって分からないだろう...ってことで、ちょっとバカにされたような気分かな....ホセ・クーラがマドリードで、オリジナル通りに《トロヴァトーレ》の「見よ、恐ろしい炎を」を歌って、一悶着あったことがありますので、低音バージョンのオリジナルの旋律を歌うより、高音バージョンを移調した方が、ブーされることもないし、観客も喜ぶということなんでしょうけどね。でもやっぱり釈然としないなぁ....百歩譲っても、録音に残すCDの場合は、差し替えてでもオリジナルで歌ったものを残すのが、作曲者に対しての敬意であり、テノール歌手としての誇りでしょう....自分に合わせて歌えるポップスと違って、オペラは、いろいろ制約があって厳しいものだからこそ、それを見事に歌ってくれる歌手には、容姿が悪くても目をつぶるっていう文化なんでしょうに....

参考:La Bohème 楽譜 リブレット

★ドミンゴの原調と半音下げて移調した"冷たい手 Che gelida manina"をアップします。
ミミ『捜してくれてるの?" Cerca..."』、鍵を捜すふりをしているロドルフォ『捜してるよ。"Cerco"』の管弦楽の部分のから半音下げて移調しています。

 半音下げ:コンロン指揮1977メト
 原調:ショルティ指揮、1974年ロンドン・フィル、CD

★★★★★
 ヴィットリオ・グリゴーロのロドルフォ君

ものはついで、この際、今まで放送された映像をチェックしてみました。

正統派オリジナル組:
★2003年/アルチンボルディ劇場(ミラノ・スカラ座)/バルトレッティ指揮/マルセロ・アルバレス
よしよし、予想通りちゃんと歌ってました。

★2005年オランジュ音楽祭/ロベルト・アラーニャ
よしよし、予想通りちゃんと歌ってました。

★1998年パレストリーナ歌劇場/メルクリオ指揮/アンドレア・ボチェッリ
こういうオペラ歌手じゃない人の方が頑張ってるのね。でも...ね。

★1993年シドニーオペラ/バズ・ラーマン演出/デーヴィッド・ホブゾン
バズ・ラーマン演出で話題になったけど、オリジナルで歌っていても、いかにもミュージカル.....

★1979年ミラノ・スカラ座/クライバー指揮/パヴァロッティ
当然、原調.....クライバーに下げて下さいって言えないよね。

半音下げ移調組:
・2002年4月ブレゲンツ音楽祭/ウルフ・シルマー指揮/ロランド・ビリャソン
ビリャソンは、無駄に大口開けるのはかわってないけど、先に紹介した映画版《ボエーム》よりずっといい。しかし、30才にして半音下げとは恐れ入りました。この頃は、愛嬌のある容貌でしたが大変貌、そして、数年で、こんなガラガラ声になるんだという見本。(アリア集では、原調でしたが、今の録音技術ではハイCの部分だけの差替えも可能のようだし....2009.1.12追記)

・2008年メトロポリタン歌劇場/ラモン・バルガス
やっぱりね。(アリア集のCDは原調、皆さんアリア集を出しているのね...)

・1982年メトロポリタン歌劇場/ホセ・カレーラス
カレーラス&ストラータスで、DVDにもなっている公演。カレーラスもドミンゴと同様ってことか...CDはちゃんと原調で歌ってます。

・1982年コヴェントガーデン/ガルデッリ指揮/ニール・シコフ
シコフも下げているとは意外だった....

・1988年サンフランシスコ歌劇場/セヴェリーニ指揮/パヴァロッティ
もうこの頃は、ハイCのないパヴァちゃんになってたのね。

オペラ好きとしては残念な結果です。Yahooブリーフケースに、「オリジナル組」のパヴァロッティ、アルバレス、アラーニャ、ボチェッリと「半音下げ移調組」のビリャソン(2007年の声と比較してみて下さい)とシコフのアリアを保存していますので、関心のある方は、どうぞ....アリア:冷たい手

関連記事:
ワシントン・ナショナルオペラ2007《ボエーム》
《ボエーム》関連

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babyfairy

うーん、やっぱり移調は狡いですね。それとドミンゴ先生の声にはロドルフォは似合いません(ヴィリャソンよりはましだけど)。私はやっぱりこの役に関してはパヴァで育っているので(例え演技は大根役者であろうとも、少なくとも歌唱上では名唱だと信じています)、その流れを汲む声質のアクートに不安の無いグリゴーロ君のが良いと思います。

カレーラスは雰囲気はあの役に合っているんだけど、80年代だともう声が衰えた後だからやっぱりハイCはきつかったんでしょうね。ヴァルガスは音楽性はあるんだけど、輝きに欠けるのはひょっとして移調してたせいでしょうか?!

オペラ歌手でない人々のは問題外として、この中で最悪なのはやっぱり最近のヴィリャソンかな。。。
by babyfairy (2009-01-09 22:31) 

助六

小生、ビリャソンを舞台で聴いたのはアルフレード、ロドルフォ、ホフマン、あとオケ伴リサイタル数回です。特に好きというわけではないんですけど、印象は悪くないです。特にホフマンは感心しました。ロドルフォは何てことなかった。
録音で聴くと確かに強調感が耳に付きますね。

クラウスは「劇的投入」なんて強調感はまったく感じさせない人で、エレガンスそのものみたいな旋律線の表現性だけで強烈な訴えかけのある音楽やる人だったと思います。私が舞台で聴けたのは「ルクレツィア・ボルジア」とウェルテル、あとオケ伴リサイタル2回でした。

それで移調の件なんですが、基本的に作曲家が書いた音をそのまま歌ってくれるのが一番結構に決まってますが、少し考えてみると結構複雑な問題があると思います。

【作曲家が認めてるケースがある】

ヴェルディ以前までは、作曲家自身が歌手の能力に合わせて移調を認め、譜面を書き直してやることは広く行なわれていた。ロッシーニはパスタのためにタンクレーディの最初のアリアを上げてやったり、ガルシアのためにリンドーロの最初のアリアをガタッと下げてやったりしている。専属歌手チームが何でも上演しなきゃならなかった劇場では、当然そうせざるを得ない場合も出て来る。

ベッリーニは「清教徒」で、パリ初演版と同時にマリブランをエルヴィーラに想定した「ナポリ版」も準備してて、マリブランのためにエルヴィーラのパートを全般的に下げている。(この「ナポリ版」ないし「マリブラン版」は諸事情で実際には演奏されず、お蔵入りとなってしまった。1980年代に復活演奏され、最近バルトリもアリアだけ録音してる。)

べッリーニは、「ノルマ」の「Casta Diva」も最初はト長調で書いたが、初演歌手のパスタが歌えないと言うので全音下げ、初演第1回上演から現行譜通りヘ長調で演奏された。
近年グルベローヴァが「原調」と称して舞台でも1音上げて歌ってますが。

ヴェルディは「マクベス」以降は原則的に「代替アリア」や移調を拒否してますね。

グノーは、1867年にパリのリリック劇場で初演された「ロメオとジュリエット」がオペラ座で1888年に上演された時、バレエを付加した他、ジュリエットの最初のアリエットやロメオの最初のカヴァティーヌを下げており、実際の上演では適宜両版が使用されている。ロメオのカヴァティーヌは、ロ長調から変ロ長調に半音下げた版が使われてることが多い。オケも低いほうがよく響くんだとか。

それで件の「Che gelida manina 」ですが、プッチーニは「天が遣わした」ロドルフォ歌いとして高く評価してたカルーソーから「半音下げて良いか」と聞かれて、「ハ音はoppureとして書いたものだから落としても良い」と答え(譜面には最高音が変イのヴァージョンの脇に『oppure』として最高ハ音のフレーズが記されている)、この時代には極めて異例のことですが、カルーソーに移調を認めています。
多くの歌手が実際の上演では、半音下げてる背景には、こうした口実があるせいかも知れません。

因みに1幕幕切れで、ロドルフォが記されてるホの替わりにハに上げて終える伝統もカルーソーからと言われてるそうなんですが。
この幕切れは「消えるように」と書いてあるし、ロドルフォは無理してミミに合わせてハに上げず静かに終えても良いんじゃないかと思います。

【作曲者の意志とは無関係の慣習的移調】

こうした多かれ少なかれ歴史的口実がある移調とは異なる、慣習的にしばしば移調されてるアリアもあります。
代表的なのはヴィオレッタのアリア全音下げ、マンリーコのカバレッタ下げなど。
「セビリャ」のバジリオのアリアなどバッソ・カンタンテに配役するためという理由で、1音下げるのが1世紀以上「伝統」になってた。

通作形式だと当然移調は難しくなりますが、どうしてどうして、一応通作形式とは言え、終止に続く転調や、拍手を意識したフェルマータに区切られ、独立したナンバーが十分切り取り可能な「アイーダ」では、アイーダの3幕のアリアなど下げてしまうことがある。

その他、移調しなくても、アルトゥーロ、エドガルドの高音なんか当時はファルセットを混ぜて歌われていたわけだから、胸声では事実上ムリで音符を入れ替えることも行なわれている。ピアニストが例えばシューマンの「交響的練習曲」で音一つ抜いてもまず聞き取れる人はいないが弾きやすくなるといった類の「現場のチエ」は色々ある由。

【ピッチは今より低かったのか】

今は初演当時よりピッチが上がってて、当然高音は難しくなってるのではという疑問が湧きます。西洋音楽の歴史を通じてピッチの差は3全音に及ぶなんて言うしね。

当時のピッチがどうだったか確実なことを知るのはとても難しい。当時のオルガンを初めとする楽器や文書資料から推定するわけですが、オルガン・オケ・合唱では同じ街の中でもピッチが違ってたり、バッハはピッチの異なる2種のオルガンを使ってたりとか。

まあものすごく大ザッパに言って、17-18世紀、バロックから古典期のオペラについては仏が一番低く、英がそれに続き、イタリアはそれより少し高め、イタリア内でもローマ・ナポリよりヴェネツィアは高め、ヴェネツィアの影響が強かったハプスブルク帝国領はそれに従じ、一番高いのがドイツと捉えておけば、一応の目安くらいにはなるかも。
18世紀初頭ヴェネツィアのピッチがほぼ今日のそれと同じイ=440くらいだったらしい。

まあバロック期は今より全般に低めだったわけだけど、19世紀ロマン派時代はどうだったのか。
ベルゴンツィがインタビューで、現代のヴェルディ歌唱低迷諸悪の根源として「当時よりピッチが上がってて、これではバリトンっぽい黒さのあるヴェルディ・テノールの音色はムリ(ベルゴンツィも世に多いバリトン出身名テノールの一人)みたいなこと言ってた記憶があるんですが(要確認)、事実はスカラのピッチは1856年にイ=450が1867年452に上がった程度らしい。つまり現行ピッチ(440-450程度、444-445くらいが多い)と同じか高いくらい。
ロッシーニ時代でも今より極端に低かったわけではなさそう。

【なぜ移調は望ましくないか】

まず前後のナンバーとの調性関係が変わるから前後のナンバーとの対比感が狂う。
それから、前後との対比を除いても個々の調性特有の性格と色彩感が変わってしまう。

でもロッシーニやべッリーニが簡単に移調に応じてるとこからすると、余り拘泥してなかったのかも。ロッシーニの頃はまだ不均等平均律で、調性ごとの特色が今より鮮明だったかもしれないわけですが。
ヴェルディは、その辺ウルサかった模様。

移調しても、まあ現実に劇場で聞き取れる人は殆どいませんよね。小生はもちろん絶対音感なんかないし、昔遊び半分「トロヴァトーレ」には音叉ポケットに入れて出かけたこともあります。
素手で聞いたら、連続比較試聴で一瞬「アレ、変だな」と思う程度ですよね。
連続試聴ならオケ含めて曲全体の色調が、歌手による声色の差を差し引いても、違って聴こえある種の違和感を感じるとこもありますけどね。

オペラというジャンルは、器楽以上に融通無碍のレンジが広い形態だし、作曲者の寛大さ、ピッチやファルセットーネ唱法の問題なんかも考え合わせると、何が「真理」なのかは分からなくなってきますから、個人的には、実際の上演では余り「現場のチエ」に目クジラ立てる気はありません。
場合によりますが、曲の性格が多かれ少なかれ歪められるという意味では、避けられるなら避けるべきインチキには違いないから、それぞれの歌手の選択とその理由を知って正当性の度合いを考えた方が、その歌手のパーソナリティと仕事をよりよく理解したり、よりよく評価できるのは確かですね。
Keyakiさんの労作エントリに勉強させて頂きました。

パヴァロッティも90年代フィレンツェの「トロヴァトーレ」上演ではカバレッタ下げて歌ってて、それを元にしたディスクの発売が随分遅れたのは、スタジオでも原調で音出すのに苦労したからだなんて聞きました。
フラグスタートが録音でイゾルデの高音が出ずに、プロデューサーの女房だったシュヴァルツコプフの高音で代替したのは有名な話ですね。
by 助六 (2009-01-10 10:11) 

シャンティ

助六様 
(この場を借りて失礼します) クラウスさんを生で4回もお聴きになったこと 羨ましさを通り越しています。

クラウスさんの歌唱のすばらしさと共に 歌手としての美学をも尊敬しているファンとしては 後世に形になって残るCD、DVDで原調で録音しないのは 芸術を貶めている行為と思ってしまいます。
by シャンティ (2009-01-10 15:40) 

keyaki

babyfairyさん
移調して、余裕をもって歌いたいというのはわかりますが、このアリアは、ハイCがあるということも知られているので、そのへんが、なんか誤摩化されているかんじがします。私は、ドミンゴだけがやってるとことだと思ってました。彼はディスクローズしてますから、誤摩化しているとはいえませんけどね。
パヴァロッティのように年齢的なもので、半音下げというのもあるようですが、そこまでして、ロドルフォをいつまでも歌うことはないのに...と思います。

ビリャソンのCDについては、演奏会形式の収録ということですが、特定の日ではなくて数日かけて収録しているようですし、客を入れないでの収録も可能だし、実際にはそうだったのかもしれませんし、何度でもトライして原調で歌いなさいよ...と言いたいですが、どうやら、彼は、原調で歌えないようですね。
高音を避けたとかで、批判される歌手もいるのに、ビリャソンってそれもないみたいですけど、大手レーベル専属の威光なのかしら? 批判されるような大物ではないのかな?
by keyaki (2009-01-11 01:27) 

keyaki

助六さん
いろいろあるんですね。
カルーソーのことで、質問なんですが、

>(譜面には最高音が変イのヴァージョンの脇に『oppure』として最高ハ音のフレーズが記されている)
これは、記事に掲載した楽譜のようになっているということですね。

>「半音下げて良いか」
カルーソーは、必ず半音下げで歌ったのでしょうか。
カルーソーは、どういう理由で半音下げたかったのでしょうか。
1幕幕切れで、ハに上げて終える伝統もカルーソーからと言うことであれば、高音のハを避けたいという理由はおかしいですよね。

因に、移調して下げて歌っている歌手は、1幕幕切れは当然楽譜通りに下げて終っていますが、原調でアリアを歌った歌手は、ハに上げて終っているようです。
この幕切れは、テノールが上げて、ソプラノとのユニゾンで歌っても静かに消えるように聞こえるように、舞台の奥の方で歌わせている演出がほとんどなので、楽譜通りにテノールが下げると、テノールの声が聞こえなくて、ソプラノだけが歌っているように聞こえるのが難点とも言えるかもしれません。(スタジオ録音だとちゃんと聞こえますが)

ところで、oppureではない「最高音が変イのヴァージョン」で歌っている歌手はいるのでしょうか。移調しなくては歌えない歌手は、「最高音が変イのヴァージョン」で歌えばいいだけのことだと思いますけど。

昔の歌手をチェックしてみましたが、ジーリ、デル・モナコ、コレッリ、ベルゴンツィ、皆さん原調で歌っています。もちろん毎度そうだったかはわかりません。コレッリは、両方ありましたから。

実際の上演では、歌手が高音を失敗するのは見たくも聞きたくもないですから、「現場のチエ」も必要でしょう。
しかし、移調してしか歌えないビリャソンにロドルフォを歌わせて、CDで発売して更に映画のサントラに使ってしまう、ドイツ・グラモフォンってかなりいい加減....いくら宣伝文句とはいえ、現代最高のロドルフォだなんて.....どこがぁ〜...です。(笑

by keyaki (2009-01-11 02:36) 

keyaki

シャンティさん
ちょっと前は、舞台では考えられないような一流キャストを集めてオペラ全曲を録音したものですが、最近の大手レーベルは、ろくな録音してないですね。
今回のケースは、はじめにネトレプコとビリャソンありきで、プッチーニの生誕150周年だから、ボエームにしとこうか...ということで、曲はなんでもよかったんでしょう。
映画だって、時間もお金もかけてないですよ。歌をシンクロさせるのが難しいからどうでもいいような場面をいっぱい挿入してますし。
by keyaki (2009-01-11 02:52) 

助六

「『oppure』ヴァージョン」は、正にkeyakiさんがupして下さってる譜面のことです。
プッチーニ自身が最初から2つの可能性を提示していたということですね。

「Che gelida manina 」の移調を巡る話は、カルーソーとプッチーニ双方からの後年の談話聞き書きが残っているだけで、双方の話に微妙なズレもあるので、100%正確なことを知るのは不可能ですが、カルーソーが1897年に初めてプッチーニに会って「Che gelida manina 」を聞いてもらったとき「ハ音をしくじるかも知れません」と言ったら、プッチーニから「譜面をよく見ぃ、ハ音はoppureだよ」と言われ、「でも皆ハ音歌ってます」と答えたら「大抵ヘタに歌われておる。ハ音は聞かないようにしよう」と言うので、ハ音があるヴァージョンを歌って絶賛されたとのことのよう。プッチーニによると、カルーソーからその何年も後に「実はあの時は半音下げて歌いたかった」と告白され、移調を認めたということらしい。

カルーソーは1898年から「ボエーム」歌ってますが、最初の数年は原調で歌ってたんでしょうね。半音下げたのは、ハ音には自信がないけれど、かと言ってプッチーニが提案した「変イ・ヴァージョン」も「テノール商売」上歌いたくなかったということでしょう。

1幕幕切れのロドルフォのハ音引き上げはカルーソーに由来するという伝承が本当なら、カルーソーは最初はハ音出していたか、あるいは「Che gelida manina」でアリアの頂点に来るフォルテのハ音ではリスクが大きくても、幕切れで舞台袖に引っ込みながら歌うピアノのハ音はより負担が軽いと判断したかのどちらかだろうと思います。

「変イ・ヴァージョン」が選択された実例は寡聞にして知りません。確かに1XX回目の「ボエーム」を半音下げて録音するんだったら、「変イ・ヴァージョン」を「異稿原典版」とか称して録音してみるのも面白いかも。小生などウッカリ買ってしまったりとかね。アラーニャの「愛の妙薬」録音はそれと似たようなことやってましたね。

付け加えれば、「ボエーム」の出版譜に先立つ1895年12月10日の日付がある自筆譜では、「Che gelida manina」の前半部「In povertà mia lieta」の前までを含む100小節以上が出版譜より半音低く記譜されてるんだそうで、従って「Che gelida manina」はハ長調で始まる。ハ音は関係ないけど、この辺にもプッチーニが移調に寛大だった伏線がありそうです。

DG初めメジャーは末期状態ですね。ディスク市場がジリ貧だから良心的企画は難しくなってるとは言え、仏ハルモニア・ムンディ等面白い企画で営業成績もまあまあというマイナー・レーベルもあるのに対し、メジャーはなりふり構わぬ商売路線に傾いちゃってますね。
by 助六 (2009-01-11 09:37) 

babyfairy

今、レコード産業は大変みたいですね。パラシオ先生(フローレスのマネージャー)が言ってました。スタジオで時間かけて作るCDでオペラ全幕なんて売れないので採算が取れないのだそうです。それでいてデッカはバルトリのメッツォがアミーナを歌うヘンテコな夢遊病の娘は全幕スタジオ録音してますが、『あんな変なものにお金かけるんじゃなく、その分を今回の誠意教徒の方に回すべきだ』なんて意見も目にしました。そのボローニャの『清教徒』はDVDになる予定ですが、それはイタリア国営放送との共同作業で経費負担が軽くて済むから実現するようなものらしいです。
by babyfairy (2009-01-11 12:11) 

keyaki

babyfairyさん
バルトリのDVDとかCDは、バルトリ人気とレアもの感覚で売れるのかもしれませんね。
歌手も、グルベローヴァとかクーラとか自分のレーベルを作ってCDとか出しているようですけど、ああいうのは採算なんて考えてないのかも。
ボローニャの《清教徒》DVD化、それは朗報ですね。
by keyaki (2009-01-11 14:38) 

keyaki

助六さん
プッチーニとカルーソーの話し、納得です。
元々のフレーズよりも、oppureの方が、テノール歌手としての声のひけらかしができる...というので一般化してしまったんですね。
高音のひけらかしで観客を沸かせてこそが、テノールの存在意義ってことですね。
姑息とはいえ「現場の知恵」で半音下げて、Doのふりして、Siを延々延ばせば、観客も拍手喝采なんですから、それもお互い幸せで結構なことですね。一昨年のアラーニャのアイーダにしても、アリアの最後"Vicino al sol"を高音のSi♭で終るのではなく静かに下げて終る別稿を採用したことが原因ですし、クーラが"Di quella pira l'orrendo foco"を慣例に従わず原典通りに歌ったことが原因で客ともめて、もう、マドリードには出てやらない....なんてことになったわけですから。

CDも、いいものを出さないから売れないということもあるでしょうし、魅力のある歌手がいなくなったということもあるかもしれません。
ボエームだって、oppureじゃない元々のフレーズを「異稿原典版」として録音すれば、話題性もありますし、売れると思います。私だって、聞いてみたいですから、ビリャソンでも買っちゃうかも知れません。(笑
アラーニャのネモリーノのアリア、リヨンの舞台のDVDも聞き慣れないバージョンでした。
クラシックの場合は、どの稿を使っているかとかの情報も解説として必要ですし、移調して歌っている場合も、明記したらいいとおもいます。
何事でも、誤摩化さずに最初から正直に公表するれば、同じことをしていても好感持たれるってことです。

ビリャソンもアリア集では原調で歌ってました(iTunesStoreで試聴)ので、出なくはないようですが、彼のドン・カルロでもロドルフォでも、絞め殺されるような高音が特徴ですから、半音下げにしていただいた方がよろしいということでしょう。
しかし、iTunesStoreで売られているCDでは、カルーソーの歴史的録音は別として、半音下げのCDは、他にはなかったです。ということで、DGの制作者の見識のなさ...ということになりますかしら....
by keyaki (2009-01-11 18:09) 

hasida

本題から離れますが、バルトリってメゾなんですかね。
録音を聞く限り、高音は楽に出るし、低音の太さは全然ないし、で
ごく普通のソプラノに聞こえます。
ロッシーニのメゾ(コントラルト)役で余りいいと思ったことがありません。
by hasida (2009-01-11 21:53) 

keyaki

hasidaさん
メゾということになっていますが、謎の歌手ですね。私もよくわかりません。確かに、一般的なメゾよりはソプラノっぽいのかな。声が小さいって言われていますが、そのせいかも.....
独自路線の歌手で、好き嫌いも極端みたいですけど、コロラトゥーラの第一人者なんですよね。思わず、みとれちゃいますけど、なんかオペラ研究家みたいなかんじもしますね。忘れ去られたオペラをどこからか発掘して来て、歌ったり,研究熱心なのも人気の理由なのかな。

by keyaki (2009-01-11 23:14) 

Madokakip

ありがとうございました。すっごく勉強になりました。
こと”Che gelida manina"について言うと、生舞台では歌手のコンディション、年齢など、色々な事情があるのはわかるので、特殊な場合はのぞき、
半音下げで後世に残るレコーディングをしているケースと、
それから、年齢的なことがある前の若いうちから、半音下げを前提として
堂々と劇場でのレパートリーに加えている歌手、この二つが私の気になるところです。
前者は全然問題外ですよね。最近の大手レコード会社の、やっつけ的な仕事に怒りを通り越してあきれてます。
だし、わからないからいいだろう、といういうような態度は、聴く側へのリスペクトにも欠けてますよね。
こんなCDが後世に残って、先の世代のオペラファンが2009年ごろのオペラファンって、
こんな録音を許してたんだ、、と笑いものにならないことを祈ります。
後者は、集客できるならアリアをオリジナルで歌えなくても、、という劇場側の気持ちもある程度はわかります。
おっしゃるとおり、観客も歌手が失敗するのを見るのは気持ちのいいものではないですし、、。
でも、観客側としては、じゃ、それなりに何か他のもので埋め合わせしてよ!という気持ちはありますよね。
例えばカレーラスとかドミンゴあたりは、半音下がっていても、
好みの問題は抜きとして、録音を聴く限り、彼ららしい役作り、歌唱、演技をしていたと思いますが、
今のヴィラゾンやヴァルガスのロドルフォを生で聴いて、そこまでのものがあるかどうか、
といわれると、私は答えに窮します。
(ちなみに二人とも嫌いなテノールではありません。それぞれに、役によってはいい歌唱を聴いたこともあります。)
ちなみに、ジョルダーノも連日で半音下げです。
このように、代わりに素晴らしいものをオファーできないのに、
堤防決壊のように次々とオリジナルで歌えないテノールが、
オリジナルで歌えないことを公言もせず、この役を堂々とレパートリーにしていっている、
このなんでもあり!な状態はおかしいのでは?と思います。
(よろしければ、ジョルダーノ出演の公演の記事で、この記事を紹介させていただけたらと思います。)
by Madokakip (2009-01-12 07:05) 

keyaki

Madokakipさん
>(よろしければ、ジョルダーノ出演の公演の記事で、この記事を紹介させていただけたらと思います。)
どうぞ、どうぞ、リンクでも引用でも大歓迎です。

メトはボエームの公演回数がダントツ1位ですけど、もう半音下げが定着しちゃっているのかもしれません。これもチェックしてみると面白いかもしれませんね。先の記事で紹介した1977年のパヴァロッティは、原調でしたけど、その後どうなっているか....アラーニャとアルバレス以外に原調で歌っている歌手がいるのかしら.....

>オリジナルで歌えないことを公言もせず、この役を堂々とレパートリーにしていっている、このなんでもあり!な状態はおかしいのでは?と思います。
そうなんです。こういう伝統的再現芸術にかかわる人たちは、伝統を守っていただかないと...特にCDで売り出す場合は、情報開示していただきたいですね。
今回のビリャソンのドイツ・グラモフォンのCDの件では、オペラ御殿さんの日記でも書かれています。http://www.h5.dion.ne.jp/~goten/diario2008-2.htm
9月13日(土)の日記です。
by keyaki (2009-01-12 09:01) 

guuchokipanten

TB掲載ありがとうございます。実に興味深く拝見しました!
ハイCか半音下げか、絶対音階のない聞き手の場合、
どうやって聞き分ければいいでしょうか?
by guuchokipanten (2009-07-20 19:23) 

guuchokipanten

今日初めて潔くオリジナルで歌っている歌手に出会いましたので報告します!Giovannni Cesariniというテノールで、ピアノ伴奏の古い録音です。どんな経歴の歌手かはよく分かりませんが驚きました。通常ハイCに上がる直前のAを長く伸ばすので「もしや!」と感じた次の瞬間、下に降りたのです!記事にもしたのでよければ見てください。
by guuchokipanten (2009-07-20 21:04) 

keyaki

guuchokipantenさん
ついに発見!しましたか。
私もguuchokipantenさんの情報を元にさがしてみました...ありました...
しかし、あまりにもヒストリカルで....このような状態の録音もで101人に含めたということは、オリジナルで歌っているからかもしれませんね。

>絶対音階のない聞き手の場合、どうやって聞き分ければいいでしょうか?
相対的に分かるしかないので、転調したときにあれ?という程度でしょうか.....助六さんのコメントにもあるようにポケットに音叉持参で観劇するしかないですね。今は、便利なチューナーもあるようですからそれの方がいいでしょうね。
ウチの家族にもピアノの鍵盤88鍵どこをたたいても反射的に音を当てるのがいますが、生まれつきです。私の場合は、こういう記事を書く場合はキーボードで全部確認してますが、普段は全く気にしてません。
by keyaki (2009-07-21 09:24) 

助六

あったんですねー。驚きました。改めてkeyakiさんブログからは目と耳が離せませんね。ありがたいです。

オリジナルの「変イ・ヴァージョン」、いいじゃないですか!
私は好きです。プッチーニがこちらを基本譜にし、ハ音に拘泥してなかったというのも私はよく分かる気がします。
keyakiさんからは、「インテリはヘンなものが好き」とからかわれそうですが(笑)。

プッチーニは、「バタフライ」や「西部」で見せるみたいなどうにもならない媚丸出しの悪趣味に滑り込む現実家である一方、「ボエーム」や「マノン・レスコー」では、ある種の奥ゆかしささえあるような確かな音楽的矜持も感じさせる人で、この2ヴァージョンに彼のそうした2面がよく表れてるように思います。

オリジナルの「変イ・ヴァージョン」だと、oppureの「ハ・ヴァージョン」では落ちてしまう「dolce」という語が温存され、この語に焦点が来るけど、聴き手の耳と頭は「dolce」という語の意味から離れることがない。
「ハ・ヴァージョン」だと、そもそも「dolce」という語が消えてしまう上、「speranza」という語だってハ音の強烈な(要するにセクシャルな)転覆力に言葉としては溶解してしまって、聞き手は言葉の意味なんかどうでもよくなる。

「変イ・ヴァージョン」だと、「dolce」と「speranza」を結ぶ意外な減5度下降も魅力的で、「speranza」にストンと落ち着いて、「speranza」の語の意味もしっかり意識させてしまう。プッチーニが「ハ音を下手クソにしか出せないなら、変イ・ヴァージョン歌ってもらったほうがよい」みたいなこと言ってるのはナットクです。

要するにオリジナル・ヴァージョンの方が言葉に即して、より旋律の綾の魅力で勝負してる。

チェザリーニ(Cesaraniという表記もあるけど、多分同一人物)は専らイタリアの地方劇場で歌い、イタリア人歌手としては録音に最初に声を残した人の一人ということのみで記憶されてる人らしい。ちょっとよろけてるみたいだし多分ハ音が出ないからオリジナル・ヴァージョン歌ったたんでしょうが、好意的に聴けば、この時代の歌い手さんらしく言葉の語り口を大切にして歌ってるようにも聞こえ、このヴァージョンに怪我の功名で合ってるような気もしてきました。

これはもう名を遂げたエライ人に勇気出して歌ってもらうしかないです。ずばりドミンゴですな。
彼は5月にシャトレでアルファーノの「シラノ」歌ってくれ、20年失望させ続けてくれた後、あろうことか思ってもみなかったことに感動させてくれました。
声も今の彼としてはしっかり出ていましたが、高音は下げてました。「ボエーム」と違って、皆分かんないもんね。でもバリトン出身で中域が充実している彼の男性的な声はシラノに相応しく、渾身の役没入で泣かしてくれましたわ。意外にも最後の最後で歌手としての踏ん張りを見せてくれた形で、高音入れ替てることなどこの際どうでもいいと思いました(もしかしたら「シラノ」にも異版があるのかも知れませんが。ドミンゴは仏語版で歌ってましたが、仏語版も伊語版も初演テノールは共にコルシカ出身の仏テノール・ジョゼ・ルッチョーニで同じ人)。このオリジナル版「冷たき手」も正にそうした声質とアプローチが利きそうな。
by 助六 (2009-07-30 07:45) 

keyaki

助六さん
guuchokipantenさんのお陰で、めずらしいものが聞けました。その後、101人全部、お聞きになった感想が書かれていて、めずらしい歌い方もあったそうですから、また、音声ファイルをアップしてみようかと思っています。

>「インテリはヘンなものが好き」
やっぱり.....(笑
しかし、普通に考えれば、オリジナルで歌う歌手がいてもいいはずなのに....本当に不思議な現象ですね。原典主義の指揮者とかもいるのに.....

ドミンゴは、ことレパートリー数に関してはチャレンジ精神旺盛ですが、こういうことには意欲的ではないと思います。要領がいいというか世渡りがうまいですから。もう、プッチーニは全作品制覇しましたから、今更ボエームは歌わないでしょうね。
今のところ、名のある歌手で、オリジナル版で歌いそうなテノールはクーラくらいしかいないんじゃないでしょうか。トロヴァトーレで観客の不興をかってでも原典で歌いましたから....しかも、来シーズン何を思ったか、チューリヒでロドルフォを歌う予定で、遅まきながらのロールデビューだそうです。これで、プッチーニオリジナルで歌えば、、評判になるでしょうね。

ドミンゴのシラノは、バレンシアの公演がテレビ放送されましたが、ぜんぜん面白くなかった.....ロクサーヌが声がでかいだけのラドヴァノスキーだったからかしら....ドパルデュー主演の映画は、面白かったのに.....ということは音楽がよくないってことでしょうね。

>バリトン出身で中域が充実している彼の男性的な声
えぇ....そうですか....ドミンゴは、バリトン出身とは言えないし、バリトン声ではないと思います。専門家がバリトンに分類したのではなくて、自分で勝手にバリトンだと思っていただけで、声質は、どう聞いてもテノールでしょう。私に言わせれば、三大テノールの中で、一番あまったるい声がドミンゴで、40才過ぎたあたりからは、その甘さが控えめになって、良くなりましたが、若い頃のドミンゴは甘すぎて「男性的な声」とは言えません....ライモンディとの共演が多いので、聞くチャンスが圧倒的に多かったんですが、その甘ったるい声、なんとかならんかい...と聞いていて、いらいらしてました。
by keyaki (2009-07-31 00:39) 

sora

こんばんは。
移調。
折角keyakiさんが並べて下さっているのに、私良く分からないです。はぁ。
耳悪いのかな。。。
私が聴いた日のアルバレスは、前半は声が飛んでこないのが気になりました。
madokakipさんのとこに感想書きますとか言って全然ですが。
全日程とも移調だったのでしょうか?
by sora (2010-08-03 21:21) 

keyaki

soraさん
私も半音下げくらいでは、分かりません。
残念ながら、絶対音感(この言い方が適切かどうかは分かりませんが)がないので。ウチの娘は、小さい頃からピアノの88鍵どれを叩いても音を当てます。うらやましい.....

トリノ来日公演のアルバレスですが、全公演半音下げは間違いないと思います。
アルバレスが半音下げるとは思ってもいなかったので、もしかして、日本だから、ま!いいか.....なんてことも有りかな...と思って調べてみましたが、日本公演に先立ってトリノで上演した時も半音下げてました。まあ、もう48才ですから、無理して、声がひっくりかえって、皆をがっかりさせるよりは...という判断でしょうね。

Che gelida maninaを半音下げているかどうかは、1幕最後のミミとロドルフォの二重唱で、最後を上げるか、下げるかでもだいたい分かります。
Che gelida maninaをオリジナルの調で歌っている場合は、最後をハイCに上げてソプラノとユニゾンで終わるのがほとんどですが、半音下げて歌った場合は、だいたい下げて終わってます。

by keyaki (2010-08-03 23:15) 

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