SSブログ

スカラ座創立200年記念公演《ドン・カルロ》TV中継にカラヤンがNo! [ドン・カルロ]

 1978年は、ミラノ・スカラ座創立200年。そこで《1778 STAGIONE DEL BICENTEMARIO 1978》と銘打って、1977-78シーズンは、アバド指揮、ロンコーニ演出のイタリア語特別5幕版《ドン・カルロ》で幕開けしました。この開幕公演を欧州各国にTV中継することになっていたのですが、カラヤンの横やりで中止に追い込まれたんだそうです。
 12月31日の記事のコメントに詳しく書かれていますが、こんな事情があったとは今の今まで知りませんでした。しかし、世界初の特別版《ドン・カルロ》のプレミエが収録されていないのは、なんか変だな....と思っていましたので、長年の疑問が解決して、すっきりしました。情報ありがとうございます。当時は日本の音楽メディアでも話題になったそうですが、私はといえば、育児書ばかり読んでいた頃で、しかもオペラには全く関心がなかったんですよね。

 しかし、スカラ座首脳陣も負けてはいませんでした。12月7日の開幕公演のTV中継はあきらめたものの、1ヶ月後の翌年1978年1月7日にTV放送を断行。これにはカラヤンも吃驚、してやられたり!だったんでしょうか。簡単に経緯をまとめてみます。
 開幕公演のキャストは、カレーラス,フレーニ、カップチッリ、ギャウロフでしたが、これがカラヤンの76年77年ザルツブルグ音楽祭のキャストと同じだったので、カラヤンがUNITELによるザルツブルグ公演収録のための歌手独占契約をたてに、スカラ座の中継をやめさせたということです。しかし、76年も77年も収録していないわけですから、78年のザルツブルグ音楽祭でも同様のキャストで《ドン・カルロ》を上演する予定で、この4人の歌手たちと契約していたということなんでしょうか。口約束でも契約は契約かもしれませんが....なんかよくわかりませんね。それに、《ドン・カルロ》は上演されたものの結局UNITELによる収録はなかったわけですから、カラヤンの勇み足としか思えません。
 歌手との契約をたてにされたのではスカラ座側もあきらめるしかなかったのでしょう。しかし、この4人の歌手を出演させなければいいんだろう...ということでスカラ座首脳陣の反撃開始! ロドリーゴとフィリッポは第2キャストのブルゾンとネステレンコでOKとしても、ドン・カルロとエリザベッタは、どうするか....カレーラスとフレーニに匹敵する歌手でなければ.....そこで、ドミンゴとマーガレット・プライスに白羽の矢が立ったということでしょうね。そして、ついに1月7日に収録の運びとなったのです。従って、ドミンゴとマーガレット・プライスは、この日だけの出演だったんです。
※こちらに、左上の写真のミラノ・スカラ座のシーズンポスターをアップしましたが、これの真ん中あたりに、そのシーズンに出演する歌手がABC順で書かれています。そこにはドミンゴの名前もマーガレット・プライスの名前もありません。その部分を拡大したものをアップします。↓
《1778 STAGIONE DEL BICENTEMARIO 1978》ポスターの出演歌手リストの部分

 それにしてもこの頃のスカラ座はたいしたものですね。この時期、スカラ座総裁はパオロ・グラッシからカルロ・マリア・バディーニ(1977年3月就任)に、クラウディオ・アバドが1977年9月から芸術監督に就任していました。前スカラ座総裁のパオロ・グラッシが、RAI(イタリアの国営放送)の総裁に就任したばかりだったということも、カラヤンの妨害をなんとしてでもはねのける原動力になったのかもしれません。
 カラヤンは私たちオペラファンにとっては、オペラ全曲の録音にも映像を残すことにも熱心で、とてもありがたい存在です。しかし、録音なら実力人気ともに超一流の歌手を集めるのはカラヤンほどの大指揮者であれば容易だったとおもいますが、こと舞台となると思い通りにはいかなかったということでしょうね。


関連記事:
1977〜79年スカラ座《ドン・カルロ》死神の山車! VideoClip5幕フィナーレ
↑ずっーと下にこの件についてコメントがあります


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 3

たか

これは当時結構有名な事件でした。カラヤンのザルツでのドン・カルロの収録は1986年まで実現していないので1978年時点でこれらの歌手がUNITELと契約していたということはあり得ないと私は思います。

カラヤンの横暴と言ってしまうのは簡単ですが、しかしアバドはスカラ座でのアイーダのキャストとロンドンでの仮面舞踏会でのキャストを録音ではほとんどそのままムーティにパクラれるという失態を犯した実績がありますのでアバド側での歌手との契約の仕方にも問題があったのではないかと私は考えています。

公演を収録した音声や映像の放送、販売をカバーした契約を初めから交わしていればムーティにパクラれたりカラヤンに邪魔されたりすることはなかったはずです。70年代のスカラ座での映像がいっこうに商品化されないのは当時これらの契約を歌手と交わしていなかったために商品化に際し権利者との再契約が必要なためだと考えられます。
by たか (2008-01-13 00:41) 

keyaki

たかさん
確かに、そのへんがぬけているかんじですね。
スカラ座がしっかりしてくれていれば、カップチッリのもうちょっと若い時のロドリーゴが収録されたんですよね。
カラヤンの場合は、ザルツブルグ音楽祭のために集めた歌手でスタジオ録音もちゃんとやってくれて、いいものを残してくれていますね。時代的にもうちょっと後ならば、映像ももっといろいろ残すことができたでしょうに、残念なことです。
by keyaki (2008-01-13 01:03) 

たか

アバドの公演に限らずこの時期のスカラの上演はそういう契約はしていなかったようですが、いずれにしても監督はアバドだったので責任はあると思います。カラヤンの方がはるかに商売上手だったということは間違いないでしょうね(笑)。

アバドのマクベスとシモンボッカネグラ、クライバーのオテロとボエーム、パターネの運命の力(カバリエ、カレーラス、カプッチルリ、ギャウロフ)などなど何とか正規盤で出ないかなあ。

でも再契約って結構大変なんですよ。クナッパーツブッシュの神々の黄昏の正規ライブ録音が発売まで50年かかった例もありますし.....
by たか (2008-01-13 01:20) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。