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パヴァロッティの足跡(1):王様になる前まで ★☆《清教徒》MP3 [パヴァロッティ]

パヴァロッティの本はいろいろ出版されているようですが、残念ながら、まだ読んでいません。手持ちの資料で歌手になるまでと歌手になってからの公演をまとめてみました。
★1935年10月12日 イタリアのモデナに生まれる。
モデナはイタリアの北西部のエミリア=ロマーニャ(州)のコムーネの一つで、その他に、ボローニャ、フェラーラ、モデナ、 パルマ、 ピアチェンツァ、レッジョ・エミリア、リミニ、ラヴェンナ等、お馴染みの町があります。ボローニャ出身のルッジェーロ・ライモンディが話していましたが、エミリア=ロマーニャはオペラ歌手を多く輩出している地域で、下の地域が低音、上の地域が高音とかなんとか言ってました。
 父は、パン職人で、オペラが好きで、声も良くて、エミリア地方のあちこちの劇場で合唱団員をやっていました。両親、祖母、女兄弟の中で、とても可愛がられて育ちました。天真爛漫(悪く言えば傍若無人)な性格はこのへんから来ているのかもしれません。
 ソプラノのミレッラ・フレーニ(1935.02.27-)とは、母親が同じタバコ工場に勤めていて、そこの保育園で一緒に遊んだ仲だというのは有名な話です。


オペラ歌手の勉強を始めたものの....
★1955年19才で歌手を目指し、アリーゴ・ポーラ(1922- )に師事する。  
パヴァロッティは、子供の頃から、声が良く、教会で歌ったり、友達の前で歌ったりしていました。小学校の先生になるため、師範学校を卒業したのですが、1955年に、参加していたモデナの聖歌隊が、国際合唱コンクール(ウェールズのランゴーレン)で優勝、それを機に、歌手をめざすことにしたのです。母親は大賛成でしたが、父は反対でした。しかし、プロの判断を仰ごうと、地元の有名なテノール歌手でもあり声楽教師であるアリーゴ・ポーラに判定を依頼。アリーゴ・ポーラは、パヴァロッティの才能を見抜き即座に無料で教えることを申し出たのです。

1956年〜 エットーレ・カンポガッリアーニのレッスンを受けることになる。
 パヴァロッティは、2,3年でなんとなると思っていたが、さにあらず。アリーゴ・ポーラは、日本に行くことになり、マントヴァの有名な声楽教師エットーレ・カンポガッリアーニを紹介され、レッスンに通うようになりました。1956年頃だとおもいます。フレーニと一緒に列車で通っていたとか。その時に、ルッジェーロ・ライモンディは、フレーニとパヴァロッティに出会っています。(こちらにそのことが書いてあります)
 フレーニは、すでに1955年地元モデナで、《カルメン》のミカエラ役でオペラデビューしています。パヴァロッティは、その時、合唱団員として出演したそうです。私生活でも、1956年にはレオーネ・マジエラと結婚、娘を出産、一旦家庭に入りますが、1958年には復帰、オペラ歌手として国際的にも認められるようになるわけですから、パヴァロッティの心中は複雑だったでしょうね。
 パヴァロッティは、婚約者のアドゥアと結婚もできないし、今後オペラ歌手としてやっていけるのか不安でいっぱいでした。


ついにチャンスが!
♪1961年4月 レッジョ・エミーリアで行われたアキーレ・ペリ歌唱コンクールで優勝
♪1961年4月29日 レッジョ・エミーリアの劇場でコンクール優勝者によるオペラ公演

 モリナーリプラデッリ指揮《ボエーム》のロドルフォ役を歌いオペラ・デビュー
★この公演を見に来ていた元テノール歌手の大物エージェントAlessandro Ziliani アレッサンドロ・ジリアーニ(1906-1977.02.18)に見出され、契約する。

 これは、本当に幸運な偶然でした。ジリアーニは、頼まれた他の歌手を聴きにこの公演に来ていたのです。しかし、契約したのは、パヴァロッティとだけ。無名のパヴァロッティをパック販売で売り込むことにしたのです。つまり、どこかの劇場がマリオ・デル・モナコを望んだら、デル・モナコを回すが、パヴァロッティにも何公演か歌わせるのを条件としたわけです。こうして、イタリアの地方都市の劇場で歌うことができるようになり、海外にも進出します。
 オペラ歌手として成功している人には、こういう出会いが必ずあるんですね。ライモンディの場合は、マリオ・ラブロカに認められフェニーチェと5年契約、ブルゾンは、コンクール優勝後、そういうチャンスに恵まれず貧乏生活、6年後に、やっとNYメトのルドルフ・ヴィングのオーディションを受けることができて、やっと本格的キャリアがはじまった...ということです。コンクールに優勝しても、その後の仕事には結びつかない場合が多いようですが、パヴァロッティは、本当に幸運だったということですね。こちらの記事スポレート:春にコンクール→秋に舞台が参考になります。
★1961年 26才で、婚約者アドゥア・ヴェローニとやっと結婚
 オペラ歌手としての勉強をはじめたのが遅いので、もっと早くに一人前になりたかったのですが、やっとオペラ歌手として自立できるめどが立ち、婚約期間8年を経て、めでたくゴールイン。彼女がいたから、途中であきらめずに頑張れたということなんでしょうね。
 この幸せなカップル(右写真)には、3女が授かり、パヴァロッティもとても家庭を大事にしていた時期もあったのですが、36年後に結婚生活破綻、人生いろいろ先のことはわかりませんなぁ。

★1962年9月 レッジョでプロとしてデビュー
♪1963年2月24日 ウィーン国立歌劇場デビュー《ボエーム》
♪1963年4月 パレルモでセラフィン指揮《リゴレット》

 パヴァロッティ自身は、本当の意味でのキャリアがはじまったのは、この《リゴレット》から、と語っています。実際に、この公演の後、条件のいい出演交渉がたくさん来るようなったのです。
国際的な活躍の始まり
♪アムステルダム ダブリン
ダブリンの公演はパヴァロッティの第二の転機、世界に飛躍する切っ掛けになりました。観客の中に当時のコヴェントガーデンの芸術監督だったイングペン女史がいたのです。彼女は、次のROHの《ボエーム》で、ディ・ステファノの代役の若いイタリア人テノールを探していました。ディ・ステファノは、土壇場でのキャンセル魔として知られていたからです。「本当に大柄な青年で、高音をひけらかすような歌い方で、少々ステージマナーは悪かったのですが、声は最高でした!」そして、女史は、パヴァロッティにディ・ステファノの代役で1公演だけ歌わないかと申し込んできたのです。
 この公演の二つ目の成果は、グラインドボーン音楽祭に招待され、モーツァルトをはじめて歌ったことです。

♪1963年 コヴェントガーデンに、ステファノの代役でデビュー《ボエーム》
 ディ・ステファノは、プレミエ以外全部キャンセルしたので、無名の新人パヴァロッティが他の全公演を歌い、TVにも出演して一気に人気者になり、再出演を依頼されるほどの大成功でした。
 もう一つの大きな成果は、サザーランドとの出会いです。イングペン女史は、「パヴァロッティは、あなたのレパートリーをほとんど歌えるし、なにより、あなたより背が高いという良さがある」とサザーランドと夫のボニングにオーディションをするように頼み込んでくれたのです。

♪1964年7月24〜8月16日(12公演) グラインドボーン音楽祭
 プリッチャード指揮《イドメネオ》イダマンテ/8月17日は、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで上演キャスト詳細

 パヴァロッティは、この時に、pianoで歌うことを学んだと後日語っています。
♪1964年英デッカでオペラ・アリア集を録音、レコード・デビュー
♪1965年4月28日 ミラノ・スカラ座デビュー《ボエーム》
♪1965コヴェントガーデン サザランドと《夢遊病の女》
♪1965 マイアミオペラ/サザランドと《ルチア》アメリカデビュー
♪サザーランドと14週間にわたるオーストラリアツアー 《愛の妙薬》《椿姫》
♪1966年3月25日〜 ミラノ・スカラ座/アバド指揮《カプレーティとモンテッキ》テバルド役

♪1966年 コヴェントガーデン サザランドと《連隊の娘》ハイC9連発で話題をさらう

この高音の"C"は、当時は"B♭"して歌うのが一般的だったが、指揮者のボニングに転調しないで歌ってはどうかと奨められ、自分でも無理だと思ったが、やってみたら出た! ということで、パヴァロッティも自分の声に吃驚したそうです。

♪1966年 ミラノ・スカラ座/ガヴァッツェーニ指揮《リゴレット》
♪1967サンフランシスコオペラ
♪1967年1月16 ミラノ・スカラ座/カラヤン指揮《ヴェルディ:レクイム》

♪1968年3月22 カターニャ/クァドリ指揮《清教徒》26歳のRRと共演
☆歌詞
ライブ:アルトゥーロのアリア"A te,o cara" Tucci,Pavarotti,Protti,RR
当時、このアルトゥーロを歌えるテノールは、現役ではゲッタ、クラウス、 パヴァロッティしかいないといわれていた

♪1968年11月23日 NYメトデビュー《ボエーム》
 「王様と私」を読んだ方はご存知かと思いますが(実は、私は読んでない)、パヴァロッティが、彼を王様に仕立て上げるハーバート・ブレスリンに出会ったのは、1967年頃のようですね。36年間の関係を2003年に解消したということのようですから。この主な公演記録でも分かるように、パヴァロッティは、ブレスリンと出会う前に、カラヤンにも認められ、オペラ歌手として成功の第一歩をすでに踏み出していることが分かりますが、ブレスリンのしたことは、オペラ歌手が課外活動で、資産を増やすお手伝いをしたということにすぎないと思います。つまりは、ファンドマネージャー、パヴァロッティの残した莫大な遺産がそれを証明しているということなんでしょうが、一番笑いが止まらないのは、ブレスリンなんでしょうね。本も読まずに言うのはなんですが、ブレスリンなんかいなくてもパヴァロッティは、パヴァロッティだったとおもいますけどねぇ。
関連記事:
訃報 ルチアーノ・パヴァロッティ(1935.10.12〜 2007.9.6)
「パヴァロッティ退院」略歴、ライモンディとの共演等まとめ
デタァ!パヴァちゃん&マジエラさん《冬季オリンピック開幕式》
RRと指揮者(12-a)クラウディオ・アバド"Verdi Requiem"

ビルバオ(1)マジエラ氏、モデナから車でビルバオへ
ビルバオ(2)カップチッリとライモンディ
RRのエピソード:声楽授業(11)レオーネ・マジエラ
ミラノで最初の勉強(2)カンポガッリアーニ先生



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euridice

お!好青年!
by euridice (2007-09-20 19:21) 

keyaki

亡くなったせいか、けっこう若い時の写真が出て来てるんですよ。
結婚式の写真だって、ほんといい顔してますよね。
西洋人って、落差が激しいですけど、パヴァロッティは特別ですよね。
スポーツ万能の好青年だったのに...なんでああなっちゃうの、です。
あれも広報活動の一環だったりして....一度見たら忘れない....
by keyaki (2007-09-20 19:45) 

ふくきち

《清教徒》のアリア、すごいですね!!

今年、イタリア旅行に行ってきたのですが、
オペラ会場には太った人が大勢いました。
客席がギシギシ悲鳴をあげるほど太っていました。
街を歩いている若い人は普通に痩せているのですが、
中年以降は多くの人が太っています。
みんなが太っているから、気にならないのだと思います。
おそらく、結婚して幸せを手に入れると、
容姿を諦める、
美味いものを飲み食いする方を選択する、
という段階を踏むのではないかと…。
by ふくきち (2007-09-20 21:42) 

マネージャーの書いた本が、刺激的で面白かったです。
by (2007-09-20 23:53) 

A te, o cara を聞かせてくださってありがとうございます^^
いやはや・・・すっごい高音。
お、、、バス歌手もカッコよく目立ってますねー。(^^)v
by (2007-09-21 00:30) 

babyfairy

パヴァロッティの暴露本は紹介記事だけ読みました。
でも本当に若い頃は真面目にオペラ一本で頑張っていたのですねえ。
思えばある意味で、クロスオーバー・スター・パヴァを創りだした事にはこの著者は貢献したかもしれないけれど、それが良い出会いだったかどうか。ちょっと考えてしまいました。
by babyfairy (2007-09-21 03:04) 

keyaki

ふくきちさん
清教徒のアルトゥーロは、 転調せずにちゃんと歌えるのは、 当時、現役ではゲッタ、クラウス、 パヴァロッティ、しかいないと言われていたそうですね。
5メガ以内におさえるために、かなり圧縮したせいかもしれませんが、高音がビリビリするほど、パワー全開の高音ですね。
パヴァロッティに言わせれば、この役は、最初から最後まで、最大限に声を張り上げて、高めの音を歌い続けなければならないので、綱渡りのようだ、と語っています。

>イタリア
町のいろんなところに体重計が置いてなかったですか?
確かに、日本の ごはん=パン お味噌汁=パスタ ですものね。
でも、太る原因はパスタというよりは、運動不足でしょう。
小食といわれていた私もイタリアにいる間に、大食漢になりましたが、いつも歩きまわっていましたので、とってもスマートでした。でも、中年になって、若い頃と同じように食べていたら、太っちゃいました。
by keyaki (2007-09-21 09:56) 

keyaki

gonさん、「王様と私」、ずいぶん話題になっていますね。検索すると、感想文、紹介文がずいぶんヒットして、それを読んだだけでも面白いです。
今まで、漏れ伝わってきていたことが、誇張ではなくて、本当だったんだ、ということなんでしょうね。
パヴァロッティに限らず、私たちからみれば、他の音楽関係者とちがって、オペラ歌手は、やっぱり特別というか特殊な人たちですよね。
by keyaki (2007-09-21 10:03) 

keyaki

りょーさん
>バス歌手もカッコよく目立ってますねー。(^^)v
ライモンディも若い頃は、ベルカントものをよく歌ってるんですよ。
「デビューしたてはベルカント」というのがイタリアオペラの伝統なんでしょうね。喉にはベルカントがいいし、ベルカント様式を身につけないと、歌手生命が短いとかなんとか言いますものね。
by keyaki (2007-09-21 10:10) 

keyaki

babyfairyさん
そう、私もあの「王様と私」は、紹介記事と個人の感想しか読んでないので何とも言えませんが、クラシックにもオペラにも興味のない人もパヴァロッティの顔を知っているというのはこの著者の手腕によるものでしょうけど、アメリカンエクスプレスのCMで、顔を売ったそうですが、もともとオペラ歌手としてのパヴァロッティを知っていた、評価していた人たちには、このマネージャーと組んだことが良かったといえるのか疑問ですよね。
まあ、そういう疑問もあって、パヴァロッティの足跡を辿るのに興味があったんです。
1966年の「連隊の娘」が抜けてましたので、追記しました。フローレスの前の時代の元祖ハイC9連発ということですね。

それに、2番目の奥さんが、ホームページのパヴァロッティの過去の公演記録を全部削除しちゃってましたし。クラシックになんの関心も無い彼女にとっては、CDの売り上げを伸ばすことと、先のスケジュールにしか関心がなかったようです。
その前は、ドミンゴのHPと匹敵するくらい充実していて、検索もできたんですよ。
by keyaki (2007-09-21 10:38) 

euridice

>「王様と私」
精読したわけではないので、いい加減ですが、著者は、まず宣伝担当(1967年〜)、そのころのお客様にはドミンゴもいたということ。そして、より積極的に独唱会、つまりリサイタルをやっていこうということで、この考えに同意したパヴァロッティのマネージャーになった。二人が出会ったときにはパヴァロッティはすでに立派な大物テノール。著者は大物しか扱わなかったと明言しています。また、著者はあくまでクラシック専門で、ポピュラー活動のマネージメントはできない、これがパヴァロッティ&フレンドなどでポピュラー界との関係を深めたパヴァロッティと、36年にわたる関係を終了した一因のようです。パヴァロッティ&フレンドでなじみのない歌をクチパクまでしてつまらなそうにやっている彼を見ていられなかったとか。
by euridice (2007-09-21 23:25) 

keyaki

euridiceさん、なるほど、大物しか扱わない....
ライモンディなんかが語るところの、素晴しいエージェント=歌手の声の成熟に合わせた仕事を見つけて来て歌手を育てる、というのとは根本的に違うってことですね。まだ、古い伝統に縛られているというか残しているヨーロッパでは、けっこう邪道と批判されたりもしたようですね。
芸術であろうが、なんであろうが、経済効果優先ってことですね。当然、劇場で歌うより、コンサートのほうが、効率的だし、集客力をつけるためにCMやTVに出て、顔を売るという戦略ですね。しかし、まず、オペラで成功していないとダメってことなんで、ブレスリンって、全然リスクがないという、普通では考えられないようなビジネスですね。
by keyaki (2007-09-22 14:03) 

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