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シャリアピン自伝 私の生い立ち(1926年著)-1-子供時代 [オペラ関連書籍&雑誌]

 『シャリアピンの自伝』をお借りして読んでいます。この自伝は、1926年に書かれた「私の生い立ち」の邦訳が1931年に出版、1932年に書かれた「蚤の歌」は、1940年に出版されました。その後、この2冊の自伝は、1983年4月に「蚤の歌」、5月に「私の生い立ち」という順に復刊されています。後で書かれた「蚤の歌」は歌手生活40年を記念して、「現在に至までの生涯の完全な描写を心がけた」ものであり、「私の生い立ち」は、「幼年時代の記述に多くのページを費やしたが、経歴や芸術上の進歩については、きわめて略画式の表面的な叙述しかない。....主として1905年以前のこと」という内容です。
 「蚤の歌」を読んでから、「私の生い立ち」を読んだほうがいいのではないかとおもいますが、なんとなくちょっと薄い方を手に取って読み始めましたが、なんとも面白いエピソード満載で、笑いながら、あっというまに読んでしまいました。まったく違いますが、なぜか、山本有三(1887.7.27. - 1974.1.11)の「路傍の石」を思い出しました。共通点といえば、時代的にほぼ同じ、極貧の中での少年の成長、やさしいお母さんととんでもないお父さん.....「路傍の石」は暗くて笑えないですけどね。
 こういう時代だったんでしょうが、本当に子供らしい愉快なエピソードがいろいろ、ちょっと紹介してみましょう。


父イワンのこと:
 父は、郡役場の書記で、お酒を飲んでいない時は、無口でとてもやさしい父で、しらふの時に怒鳴ったり乱暴を働いたりする父を見たことはなかったが、酒を飲むと人が変わり、私だけでなく母にまで暴力をふるった。
 父は酔っぱらうと、はじめに来た人に話しかける。まず丁寧にお辞儀をして、いかにも親切そうな口ぶりで話し出す。相手が「どういうご用でございます?」と聞くと父は「どういうわけであなたは豚のような目をしていらっしゃるのでしょう?」とか「そんなまずい面をしていらして、恥ずかしくはおありにならないんでしょうか?」とかいい出す。すると相手は怒って、父を罵りわめく、こういうことは、20日過ぎに起こるのが常だった。
 スコンナヤの村では大人も子供も殴り合うのが日常茶飯事で、当たり前のことだと思っていたし、殴られるのには慣れっこになっていたが、さすがに12歳の頃には、父の乱暴に反抗するようになった。ある時父がひどく怒り、大きな丸太で襲いかかって来たので、殺されると思い、零下15℃の中、シャツ1枚で裸足で家を飛び出し、数百メートル先の友達の家に逃げ込んだ。翌日、家に帰ったら、母は、よく逃げたと誉めてくれたが、裸足なのを見て、どうして靴を履いて逃げなかったのか叱られ、靴なんか履いている余裕はなかったといくら説明しても納得せず、殴られそうになった。
こんな毎日だったが、村ではたくさんの友達がいて楽しい思い出もたくさん書いてあります。

読み書きを習う:
 5〜6歳の時、村を離れて、町に引っ越した。父母と私と妹と弟が一部屋で暮らして、父母が出かける時はその部屋に閉じ込められたが窓から脱出して町を駆け回った。
 ある時、近所の士官の奥さんに読み書きはできるかと尋ねられ「いいえ」というと、では、私の子供に教えてもらいなさいと言われたので、習いに行き、読む方は割に早く覚えた。奥さんは、私に本を読ませて喜んでいたが、1ページ読み終わるとどっちにめくっていいかわからず、同じところを読みはじめた。奥さんはページのめくりかたを教えてくれたが、最後まで行くとまたわからなくなり、同じことを繰り返したので、とうとう奥さんは頭に来て、馬鹿者扱いして怒った。私は悲しくなって泣き出した。あとで、奥さんも慰めてくれたが、二度とその家には行かなかった。

ピアノ:
 家主のリシーチンの娘がピアノを弾いていて、それが天国の音楽に聞こえた。最初はオルゴールを回していると思ったが、指の下から音が出ているのを見て吃驚、これは自分も習わなくては思った。偶然にもくじで中古のクラヴサンが当たり、これで習えると大喜びしたが、どう頼んでも父は鍵をかけて触らせてもくれなかった。私が病気になった時にクラヴサンの上で寝かされた。上に寝ていてもよくて、弾いてはいけないということがどう考えてみてもわからなかったが、やがて、25か30ルーブルで売り払われてしまった。

教会の合唱団に入る:10歳頃
 家族は、スコンナヤの村に戻り、地下室のちいさな二部屋に移り住んだ。その上に合唱指揮者シチェルビニンが住んでいて、そこで合唱の練習をしていた。私は勇気を奮って、歌い手に傭って欲しいと頼んだ。彼は、バイオリンを弾いて、ついて歌うように言ったので、必死について歌った。「声もいいし耳も確かだ。楽譜を書いてあげるから覚えておいで」と言って、音階を書いて♯や♭の記号を教えてくれた。難しい記号にもすぐに慣れて、3回目の晩祈にはコーラスに加わって楽譜を見て歌えるようになった。母は、私の成功を喜んでくれた。2、3ヶ月後には月に1ルーブルもらえるようになった。
 その後なぜか合唱団は解散して、シチェルビニンは、酒浸りになったが、「歌おう」と私を呼んでは、バイオリンを弾いて歌を歌った。それから、夜二人で、バスとソプラノで教会から教会へ歌い歩くようになった。そうしているうちにシチェルビニンは修道院のコーラスを指揮するようになり、私もそのコーラスに入って、一月に6ルーブルももらえたし、結婚式や葬式や、いろいろ幅収入があった。
 好きな歌を歌ってお金がもらえて歌ってなんと素晴しいんだろうと思った。自分でトリオも作曲して歌って、みんなに喜ばれた。お金は、もちろん両親に渡したが、一部はくすねて大道芝居を見に行ったり菓子を買った。
なんだかんだ言っても、お父さんは、息子がバイオリンを欲しがれば、中古屋で買ってくれたりするんですよね。寒い地方は酒飲みが多いですね。

はじめてオペラを見る:
 歌って儲けた金で内緒で再々芝居を見に行っていたが、ある時オペラをはじめて見た。カザンでは使わない言葉を使い、なんでも歌ってしまうことに驚いた。生活を歌で表現するなどということははじめてだったし、おそろしく立派な衣裳をつけ、聞くも問うも,考えるも怒るも、死ぬも皆歌でする。すっかり魅了されて、日々の生活も全部歌でやろうと企て、父が「おい、酒」と言えば「はーーい、ただーーいまぁーー」とかやったもんだから、父は「ほら見ろ、オペラなんかろくなことになりゃしない!」と怒った。
 しかし、芝居熱は日々こうじて、ついに芝居小屋にもぐりこむことに成功。しばらくして群衆のひとりとして舞台に立った。顔に墨を塗って、真っ黒の衣裳を着て出るだけでお金をもらえたし、ヴァスコ・ダ・ガマの万歳を唱え、幸福だった。顔に塗った墨が雪でこすってもとれなくて、父にバレて怒られた。バスのイリヤシェヴェッチのメフィストフェレスが私の空想した悪魔と一致していて一番印象に残っている。力強く皮肉に歌いながら舞台を駆け回っているのに、楽屋ではおとなしい口ぶりで話しているのを聞くと、なんだかわけのわからないような恐ろしい気がした。彼の焔のような眼光に身の縮まる思いをしたが、後で,瞼に金箔が貼ってあるだけのことだと知った。

小学校卒業:13歳
 靴屋や細工屋の丁稚奉公にも行かされたが、不器用で覚えが悪く追い出された。学校にも行かされたが、なんだかんだで追い出されたりで何回も転校したが、どうやら13歳で卒業した。卒業試験で、ズルして誰も読んだことのないような本を捜して写して提出したら、バレもせず満点をもらえたし、役者の台詞のまねごとをして先生を喜ばせて、成績優秀で卒業できた。そんな私を友達は軽蔑の目で見ていたようだが、策略も悪いものじゃない、と思った。
 「卒業できて、お前も学者になったんだから、働くんだよ。これからは本を読んだり芝居を見に行ったり、歌を歌ったりするんじゃないぞ」と父に言い渡され、質屋に奉公にやられた。9時から4時まで出納をやったが、帳簿をつけながら頭は芝居の舞台のことでいっぱいだった。理由は忘れたが間もなく質屋奉公をやめた。父は怒って、アルスクの二年制実業学校に入学させた。父は私を職人にしようと思っていたし、アルスクには芝居小屋がなかったせいでもあった。両親の下を離れるのは初めてで、最初は指物のクラスに入ったが、先生は皆をそのへんの物差しやら板でよく殴った。本で殴られる方がましだろうと製本のクラスに移った。とにかく表装ができるようになった。芝居のない無味乾燥な町に嫌気がさして一度脱出を試みたが、すぐに連れ戻され、ひどいお仕置きを食ったので我慢することにした。ところが母が病気になり、カザンに帰ることになった。母は全治して、父は私を郡役場の書記にした。毎日夜中まで父と一緒にたくさんの報告書を書いた。

まだ、まだ思い出話は続きますが、この辺で一休み。暑さのせいか、年のせいか、だらだら書いてしまいました。シャリアピンは子供の頃から本が好きで意味がわからなくても片っ端から読んだそうです。特にパリを舞台にした小説をたくさん読んでいたので、後にパリに行った時もはじめてのような気がしなかったとか。
★フョードル・シャリアピンFyodor Chaliapin(1873.2.13 - 1938.4.12)略歴
関連記事:
《ドン・キショット》いろいろ☆★シャリアピン



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おさむ

 関係ないですがエルナー二のシルヴァのアリアを歌う機会があり あらすじを知っておこうと メトの公演のビデオを見ました 物凄くあきれてしまいました 「なんてしょうもない話のオペラや・・」 大歌手が歌っているから公演が成り立つんでしょうけど パヴァロッティやライモンディもよく感情移入して真剣に歌えるなーと感心してしまいます、笑っちゃいますもん、オペラ見てよく思うんですが、音楽は壮大でいいのに物語が釣り合ってなくてもったいなくおもいます、勿論全部でないですけど、 台本さえよければすごくいい作品だし、オペラ好きな人も増えるのに、おしいな~なんてよく考えます。昔は、というかオペラは歌手の技量や音楽がメインで物語はそんなに考える必要なかったんでしょうし 歌手が凄かったらそれでいいんですけど 物足りないとおもうのは僕だけですかねぇ・・ 内容が薄いと歌ってても空しくなるんですよね ライモンディが作品によって乗り気がしないのもわかる気がするんです。物語のしっかりしたオペラを新しく作って欲しいです勿論音楽レヴェルは落とさずに、心の底から感動するものを・・とは思ってもオペラの作曲なんて昔と違いお金にならないからできないんでしょうねー。とにかくエルナー二を見るよりも、上演時間が1時間も満たない林光さんの「おこんじょうるり」の方が何倍も感動します。
by おさむ (2007-08-18 16:20) 

keyaki

おさむさん、お久しぶりです。
>シルヴァのアリア
バス歌手には重要なアリアですよね。
ズンチャッチャと大見得切って歌って欲しいですね。

ちょっと、ちょっと、エルナーニ、そんな約束しちゃダメ、ダメとか、カルロもあっさり急にいい人になっちゃって、なによ、それじゃ、シルヴァの立場がないじゃんとか、ほらほらだから言わんこっちゃないでしょエルナーニ、約束しておいて、今更命乞いはないでしょ、とか、いろいろありますが、名誉に殉ずる男と、復讐に燃える男のいかにもの大芝居、荒唐無稽で、こういう血わき肉踊るっての,歌舞伎っぽくて私けっこう好きなんですけど、おさむさんはダメですか、ううーーん。
by keyaki (2007-08-18 20:00) 

Sasha

なるほど、「路傍の石」ですか! 私も昔これを読んだとき何かに似てるという気がしたんですが、そーか、keyakiさん、すごい記憶力ですね。

ところで、映画版『魔笛』を観てきました。(感想は某所。)今をときめくバス歌手氏の風貌に対するケッサクなkeyaki評(敬称略でシツレイ!)が思い出されてなりませんでしたよ!
by Sasha (2007-08-20 13:33) 

keyaki

Sashaさん、捜し出してお貸し頂きありがとうございます。シャリアピンの生い立ちは、まったく知りませんでしたので、感心することしきりですわ。

「路傍の石」は、小学校の時に、講堂で映画も見てますし、日本全体が貧しい時代だったので、子供ながら、共感するところもあったんでしょうね。

>映画版『魔笛』
大きな子供が見たがったってことですか? なかなかじゃないですか。
メトの子供向け英語版では、ザラストロがパペでしたけど、ぜんぜん存在感無くて、モノスタトスに完璧に食われてました。今の子供たちも、説教たれてえらっそうなザラストロより、モノスタトス君の方がカワイイなんて思うんじゃないかしら。私もモノスタトス君についつい同情してしまうんですけど...
映画は、ケネス・ブラナーがザラストロ中心のお話にしたってことでしょうね。だから、一応、名の通った歌手を起用したってことかな。
by keyaki (2007-08-20 15:04) 

Sasha

keyakiさん、たびたびごめんなすって...

しばらく前に書いた、「ペレストロイカの到来とともに早速ソクーロフが撮ったシャリャーピンについてのドキュメンタリー映画」、ですが、邦題は前に書いたのではなくてただの『エレジー』でした(ちなみに原題も同じ)。エレジー・シリーズの第1作らしい。1986年制作、白黒、30分の短編。ソビエト映画祭(1991)の解説パンフによると次のとおり。「シャリャーピンをめぐる記録映画や秘蔵のポートレート、1920年代の世相を伝える貴重なドキュメンタリー、シャリャーピン主演のフランス映画『ドン・キホーテ』の断片などで構成された映像、随所に流れるシャリャーピンの朗々たる歌声からは、異国の地で最期を遂げた彼を死ぬまでとらえて離さなかった望郷の念が切々と感じられる」 連れ子を含む3人の娘さん(うち一人は美貌の誉れ高いミス・ロシア優勝者^^;;)も出演しているとか。

私自身、観ていないのが残念です。ロシア映画祭のような催しでもあればそのうちにまた観られるかも。
by Sasha (2007-08-24 12:46) 

keyaki

Sashaさん
ネットで『エレジー』のことを書いているのをちらっと読みましたが、ブックマークつけるの忘れたので、確認できませんが、その人によれば、なんか好意的ではない扱いというか、なんか感じ悪い感じ....(笑)....だそうですよ。ますます見て見たい。(笑

1986年というとペレストロイカがはじまったばかりですよね。ソクーロフの作品はソ連時代というかペレストロイカ前は上映禁止の憂き目をみたそうですが、この『エレジー』は、微妙な時期に制作してますよね。

「シャリアピンの生い立ち」にあの森、オストロフスキーの森がちらっとでてきました。
シャリアピンが丸く太った友達と二人で歩いている時に、なぜだかオロストフスキーの「森」という芝居を思い出して、笑い出した...というくだりです。背の高い痩せた男と、背の低い太った男が出てくるからだそうですけど、こういう組み合わせは、ボリス・ゴドノフのミサイルとワルラーム、ファルスタッフのバルドルフォとピストーラとかありますけど、「森」を思い出すということは、ロシアでは誰でも知っているような劇なんですね。
by keyaki (2007-08-25 09:58) 

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