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誰でしょうね、この二人は?(オペラ雑誌から) [椿姫]


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 l'operaというオペラ雑誌を定期購読しています。今月号は、ルッジェーロ・ライモンディ主演のボローニャの《ファルスタッフ》のレビューもあって『センセーショナルな成功』という見出しでした。
 この雑誌はレビューが早いのと写真がいっぱいなのが特徴ですが、最近の傾向として、見たくないような気持ち悪い写真が多いんですよね。つまり、そういう演出のオペラが多いということなんですが、そういうのはおいておいて、今回は、これなに?なんなのさ? という写真を取り上げました。
 はい!ご覧下さい(クリックすると大きい写真が表示されます)。この二人は誰なんでしょう。おばさん顔なのに幼児体形なのは、このところ、はちゃめちゃレパートリーを謳歌しているクリスティーネ・シェーファー(Christine Schäfer 1965生)、お隣は、私も注目しているハンサム系テノールで、着実に人気上昇中のヨナス・カウフマン(Jonas Kaufmann 1969生)ですね。で、この二人は誰と誰なのさ、なんですけど....これはですね、エディット・ピアフとテオ・サラポなんだそうです。そういわれれば、エディット・ピアフに似せてますね。テオ・サラポは、20歳も年下で、ピアフが死ぬ直前に正式に結婚した歌手兼俳優なんだそうです。Wikipediaにテオ・サラポのことも書いてありますが、とてもいい人だったんですね。
♪とっくに捨てたと思ったシェーファーの椿姫がありましたので、音声ファイルをアップしました。数年前のです.....アルフレードはカウフマンではありません(8.8追加)


 もう一つ、ワグネリアンの皆さまに....
 ちょっと、ちょっと、せっかくカツラをかぶるんだったら、金髪の巻き毛のカツラとか化粧で、それらしくしたらどうなのよ、なんですけど、そんなことしたら化け物大会になりそうな気もしますね。しかし、くたびれた白鳥の騎士だこと。→

 上の写真のことが途中でしたね。これは『ピアフとサラポ』という新作オペラでもミュージカルでもなくて、《椿姫》なんだそうです.........両方ともパリはガルニエの今シーズン最後の公演、もう一つ、マルセロ・アルバレス主演の《仮面舞踏会》の写真もありましたが、丸セロ丸ちゃんが、なんかほっそりスマートに写ってました。まともな写真なので、ここには掲載しませんけどね。

参考:共演者略歴カード:ヨナス・カウフマン
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euridice

シェーファーさま、いくらなんでもそのお姿は・・・ホフマン物語のオランピアにしてもえらくグロな人形だわ^^; ヴィオレッタとは、悪趣味な演出なんでしょうねぇ・・きっと。

>くたびれた白鳥の騎士
はぁ・・ これは、エルザに剣と角笛を渡しているところですか・・エルザの衣装も何なのさ?!
by euridice (2007-08-07 23:07) 

なつ

クリスティーネ・シェーファーは、ザルツブルクのケルビーノでも、散々な目に合ってましたね…。
特にシェーファーが、ということでなく、大胆な演出でも(よい意味で)恥ずかしげなく出来る歌手ならまだいいけど、演技派とはいえない歌手が無理して演じると、観ている方がつらくなります。

>l'opera
私もイタリアに滞在している時は、読んでいました。グラビアきれいでしたねえ。
by なつ (2007-08-08 00:31) 

keyaki

euridiceさん
この演出家にとっては、椿姫とエディット・ピアフが重なって見える部分があって、ひらめいたのか、シェーファーを見て、ピアフに似ているというのでひらめいたのか.....いずれにしても、ピアフは歌手なんだから、ヴェルディの音楽を使わないで、彼女の歌を挿入したりした新しいお芝居とかミュージカルにしたほうが、いいに決まってると思うんですけど..

白鳥の騎士なんて、オペラを知らない人には恥ずかしくて言えないヘップナーのおっさんローエングリンは、カーセン演出の再演のようです。
ゲルギエフ指揮ということで話題だったようですが、どうやら初日は違う指揮者が振ったとかで、二幕の前にモルチエが出て来て、マエストロ・ゲルギエフはパリに到着したけど、どうたらこうたら....」と説明があったとか.....しっかし、日本だったら大騒ぎじゃないのかなぁ。
この演出は、時代と場所は第二次世界大戦終戦時のドイツだそうで、なんといってもカーセンですから好評の演出のようです。
オルトルートはマイヤーだったみたいです。
by keyaki (2007-08-08 10:00) 

keyaki

なつさん
クリスティーネ・シェーファーって、ルルとジルダ(コヴェントガーデン,マクヴィカー演出)はよかったけど、最近のドンナ・アンナとかケルビーノとか、なんかレパートリーはちゃめちゃ、やぶれかぶれな感じを受けますが、なにをやってもオッケーのようですね。
椿姫にしてもソプラノにとっては、夢の役だと思うんですけど、ネットで一回聞いたような記憶がありますが、??でしたよ。それなのに、いろんなところで歌いまくってますよね。で、ケルビーノも歌っちゃっうし、それに来年は、なんとロッシーニのイタリアのトルコ人だそうですよ。

>>l'opera
写真を眺めているだけですが、本当に最近の演出の傾向でしょうけど、ブログに掲載するのをはばかられるような写真もあるんですよね。
この雑誌のいいところは、宣伝のページがないので、薄っぺらなのに、他のオペラ雑誌より、各地の公演が網羅されているのが気に入ってます。
イタリアでは、edicolaって言うんでしたっけ、街頭の新聞雑誌スタンドで売られているようですね。
by keyaki (2007-08-08 10:22) 

助六

ガルニエのマルターラー演出「トラヴィアータ」は小生、チケットは買っておいたものの、不在で見れませんでした。仏紙評は約1つを除いてクソミソでしたが、独紙評は、結構好意的なのが多かった。

マルターラーの着想の出発点がどこにあったのかは知りませんけど、既にシェファーが主演したベルリン・リンデン(シェファー抜きでエクスにも来た。見てませんが)のムスバッハ演出「トラヴィアータ」でもヴィオレッタはモンローに重ねられてたみたいだし、ガルニエのワルリコウスキ演出「マクロープロス事件」でも、エミリアは、マリリーンにフェイ・レイとグロリア・スワンソンを加えたみたいな感じだった。ケルンで見たクレーマー演出の死の都」も「めまい」のキム・ノヴァクに重ねられてましたね。

まあ演出家にとっては、親しみのあるスペクタクル世界に近づけて考えた方が、アイデアが回転して行きやすいとこはあるでしょうし、演出やってればドラマについての自己反省みたいな部分は、必然的に出てくるだろうからこういう発想は出てきやすいのかも知れませんね。

バスティーユのカーセン演出「ローエングリン」は96年プレミエでしたが、94年にジュネーヴでやってるそうだから(つまりユーグ・ガルの企画)、もう結構古くなりましたね。何度も再演されてますが、他のローエングリン役は、ウィンベルイ、モーザーだったから、まあヘップナーほどじゃないにしても、おっさん振りは似たようなもの。リンデンのシャトレ客演のボータもね。ヘップナーは演技的には文字通りのお大根とは言え、ディクションとフレージングに関しては現役ヴァーグナー・テノールではトップ・クラスと思います。何故かバイロイトには出ませんが。でも今度のローエングリンは、トリスタンほどの強い印象は与えられず、この役の独特の難しさを再確認させられましたけど。小生が見た白鳥騎士で、舞台姿が一番それっぽいのは、やっぱりフォークトですかね。

一番イタリアっぽいヴァーグナーとされ、ドミンゴやアライザも歌ってるから、アラーニャに独語特訓して歌ってもらったら? カウフマンは歌ってないんですかね。彼はバリトンっぽい音色ですしね。彼のガルニエのアルフレードはウルサい批評家さんもほめてましたね。

「ローエングリン」カーセン演出はプレミエ時の仏評の大勢は好評とは言えず、私も彼のサイテイ部類の仕事と思ってます。ほめた人も少し居たけどね。舞台は戦時中の掩蔽壕みたいな感じなんですが、時代はぼかしてあって、第一次・第二次大戦、19世紀、近未来どれにも見える普遍的時間みたいなんですよね。

ゲルギエフは小生が見た初日はちゃんと出てきたけど、2日目は飛行機の遅れで30分遅刻、4日目に至っては、飛行機の遅れで1幕は間に合わないと連絡があり、ゲルギエフの助手でダブルのミヒャエル・ギュットラーが取り合えず1幕振ったものの、2幕前にモルチエが出てきて、結局間に合わないので、全幕代役が振りますとアナウンスしたそう。小生がもう一度行った5日目は、「ゲルギエフは病気でキャンセル」と張り紙が出てたけど、実はまた遅れてきたゲルギエフにモルチエが遂にキレ、振らせなかったとかいうウワサ(未確認)。6日目も20分遅刻で、さすがにオケもブツブツ、客からもブーが出てた由。

要するに「ローエングリン」の合間に別の契約入れて、飛行機で往復してたらしいんですが、まあゲルギエフは俗人の数倍仕事入れてるとは行っても、数分の1の仕事しかしてないフツーの並みの指揮者より、スタイルは何やっても見事にワンパターンとは言え、出てくる成果の平均点は上なわけだから、皆結局受け容れてるのかもしれません。

私は彼の粘っこくうねる動物的なヴァーグナーは趣味ではありませんけど、効し難い動物的催涙力という点でも、「ローエングリン」は彼の「トリスタン」ほどじゃまるでなかったですわ。

シェファーはルルには大変感心しましたし、ケルビーノも良かったです。ドンナ・アンナやヴィオレッタどころか、シュベルティアーデの小さな小屋で、ピリオド楽器室内オケをバックに、演奏会形式で2幕だけとは言え、イゾルデまで組まれてたのにはドギモを抜かれました。ほんとに歌ったたんでしょうかね。

でも現役ヴィオレッタって、チョーフィ、マシス、ボンファデッリ、ムーラ、ヴァドゥヴァ、メイとか蚊の鳴くようなレジェロばかりじゃない。ドゥセだって歌いたいいんでしょう。私ももう「カラスの教訓はどこ行った。ドラマティコ以外には歌わせるな」とか「野暮」を繰り返す気はなくなってます。今ドラマティコ・ダジリタに近いヴィオレッタ歌いは、ネトレプコになっちゃうんでしょうかね。グレギーナなんかはどうだったんですか? 

>ブログに掲載するのをはばかられるような写真
ってどの舞台のですか? 興味シンシン!
by 助六 (2007-08-09 08:58) 

keyaki

助六さん、「トラヴィアータ」残念でしたね。
この記事を書いたあと、ネット検索で2、3鑑賞レポートを見つけましたが、カメラが入っていたので、DVDになるかもということです。この方は、できれば、発売してほしくない...そうです。演出もよくないし、シェーファーは誤魔化し歌唱で期待外れ、演出のせいかもしれないが、こんなに失望させられたオペラは久しぶりとか.....レビューにも書いてありましたが、なにしろ2幕からベッドに寝ちゃってるそうですから....

シェーファーのケルビーノは、視覚的にダメですが、男性には評判いいんですね。お着替え場面は、脱いだら、上は、ランニングシャツのようなものでしたが、下は全く同じものを着ていたので、苦笑、あれだけ、舞台の真ん中で大袈裟にやっておいて、なによ!です。(笑

>ドゥセ
のなら見たい、聴きたいです。

>グレギーナ
数年前に日本で歌いましたが、私は見ていませんが、こちらにも時々コメントを書いくれる知人の面白レポートが楽しかったのを覚えています。なかなかよかったそうですが、歌詞を忘れて、だまって、花を差し出したとか、テーブルだかグランドピアノの上のカバーをものすごいいきおいで引っ張って上の花瓶がそのままの状態だったとかの武勇伝?もあったようです。

>ゲルギエフ
l'operaのレビューを書いた人は、4日目に見に行ったということですね。レビューは初日という風に思い込んでいました。しかし、ゲルギエフっていつもそんな感じですが、なにをやっても許されるほどの人気と実力があるということなんでしょうね。

>ブログに掲載するのをはばかられるような写真
最初は、化け物大会という記事にしようかなとも思ったのですが、それぞれにファンがいるでしょうから、今回の記事に落ち着いたんですけど....
今月号の、はばかられる写真は、当然といえば当然なんでしょうけど、オペラクリックでは、このシーンの写真はさけてますね。スカラの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」です。おそらく女中かカテリーナどちらかが、男たちにもてあそばれているシーンだとおもいます。口で説明するほうがいやらしいかもですが、どこかにピユーッと水を命中させて遊んでます....
by keyaki (2007-08-09 15:56) 

峠茶屋の爺

ケルビーノやオクタヴィアンに格別のこだわりを持つ爺としては、シェーファーのケルビーノは余りいただけませんな。小さくてかわいく見えるのはいいが、いささかガキっぽ過ぎる感がするのじゃ。一応貴族の家に出入りしてるのじゃから、ある程度の品格は欲しいところじゃ。封建制度を風刺したところに価値があるオペラブッファじゃから、時代背景を余りに無視した演出はいかがなものかな。
オクタヴィアンは、宝塚の男役トップスターのように凛々しく格好いいイメージであれば先ずは合格じゃから分かりやすい。リーザ・スティーブンス、セーナ・ユリナッチ、フォン・オッター、キルヒシュラーガー、スーザン・グラハム等々簡単に名が浮かんできますぞ。
しかしケルビーノはほんに難しい。歌唱の立派なケルビーノは幾らでもおるが、これぞケルビーノのイメージにぴったりという決定打がなかなか見当たらなくて困っておる。ボーイッシュであることが条件じゃが、女性を見れば誰でも口説きにかかるませたお小姓じゃから余り子供っぽいのはダメ。オクタヴィアンのように凛々しく格好いいのもダメ。
アグネス・バルツァ、チェチーリア・バルトリ、テレサ・ベルガンサ、フィオレンツァ・コッソット、スザンヌ・ダンコ、マリア・ユーイング、ヴェロニク・ジャンス、アンゲリカ・キルヒシュラーガー、スザンヌ・メンツァー、イヴォンヌ・ミントン、アン・マレー、ジュリエッタ・シミオナート、タチアナ・トロヤノス、アンネソフィー・フォン・オッター、フレデリカ・フォン・シュターデ等々、そうそうたる顔触れじゃが誰がいいのかさっぱり分からん。
ユーイングは子供の頃のモーツァルトの肖像に似せているようで笑ってしまいましたぞ。強いて言えば元気の良いコッソット、初々しいフォン・シュターデあたりが爺の趣味に適うのじゃが、どなたか教えて下さらんかのう。
by 峠茶屋の爺 (2007-08-10 19:27) 

峠茶屋の爺

暑くて忘れ癖がついたようじゃ。
シェーファーの幼児体形の写真はエディット・ピアフ役ということで納得。
エディット・ピアフは小柄も小柄、142㎝しかなかったそうじゃ。シェーファー自身もかなりの小柄なのかな。
小柄ついでにピアニストのアリシア・デ・ラローチャが140㎝。いくら有能とはいえ、手が小さいハンディを乗り越えて、スペインを代表する超一流のピアニストとして活躍したのは立派としか言いようがありませんな。脱帽。
by 峠茶屋の爺 (2007-08-10 22:02) 

Sardanapalus

Quicktimeをアップデートするのに時間がかかって出遅れましたが、なんじゃこりゃ!?×2ですねー。

はあ、このすごい格好のおばさんはピアフですか。ヴィオレッタってそんなおばさんじゃないはずなのに(^_^;)これで「こんな若くして死ぬなんて…」って歌われても…。シェーファーは、テクニックはあると思いますが、モーツァルトとドイツ語レパートリーで聞きたいです。私もどうせならドゥセで見たい、聴きたい(^^)ちなみに、例のところで1幕最後のアリアを歌っているガラを聞けますよ。

おっさんローエングリンは、せめてもう少しカツラと分からないカツラにして欲しいです。床山さんいないのかしら?っていうくらい合って無いですね。それから、ゲルギエフは相変わらず超人的なスケジュールなんですね。ある意味尊敬してしまいます。

>化け物大会
お化け屋敷ということですか?確かに最近のオペラ演出はやけにアングラ志向で困ってしまいます。
by Sardanapalus (2007-08-11 00:54) 

keyaki

峠茶屋の爺さん、
ケルビーノは、若い時にやって欲しいですね。私は、フォン・シュターデが好きです。
コッソットは、妖艶なかんじで、ちょっとケルビーノは想像できませんが、若い時は少年にみえたんでしょうね。

今日の夕刊にエディット・ピアフの映画の広告が出ていました。この映画にあやかった演出なのかしら....
by keyaki (2007-08-11 02:06) 

keyaki

Sardanapalus さん
ありがとう! さっそく取りに行ってきました。
Natalie Dessayいいじゃないですか。関係ないけど、なんで、パリでシェーファーがうたわにゃならんの。今はもっとうまくなってるのかしら? ヴェルディを歌うテクニックは??......フレージングも....

ほんと超人ゲルギエフ、よく目を閉じて指揮してますけど、本当は眠ってたりして... (笑

>>化け物大会
お化け屋敷に化け物がってことです。それにエログロナンセンスなんちゃって。
by keyaki (2007-08-11 03:03) 

Sardanapalus

ドゥセのヴィオレッタは本当に歌う気ならぜひ生で見てみたいです!演技面でも説得力のあるヴィオレッタになりそうですね。

>>シェーファー
>ヴェルディを歌うテクニックは??......フレージングも...
これは私もどうなのかしら?と思っているところです。モーツァルトのイタリア語オペラではそんなに気にならないのでイタリア語に大きな問題があるわけじゃない、としたらヴェルディとかイタリアオペラでのフレージングが特殊なのでしょうかね。違和感があるのは確かですね。
by Sardanapalus (2007-08-13 00:11) 

助六

件のマルターラー演出ガルニエの「化け物トラヴィアータ」再演、観てきましたわ。6月のプレミエ時と比べて、指揮はカンブルランからオーレンに替わり、アルフレードはカウフマンからセッコに交代。シェファーとヴァン・ダムは同じ。

素晴らしかった!! 「イタリア・オペラ」上演としては完全に失敗だけど、「音楽劇」としての説得力は大変高く、演出・シェファー・オーレンのドラマ・コンセプトはピタリと一致してて高い一貫性があります。小生が観た「トラヴィアータ」の中では、まあ最もユニークで最も感動的な上演かも。音楽的にもマゼール・ローレンガー・F=ディスカウの録音に次いでユニークかつ面白い。

まず写真のシェファー化け物はちょっと大げさ。実物はもっと足延びてるし、こんなにバアサン顔に写ってるのもやや気の毒。セッコ君もまあ歌手としてはハンサム系ですかな。

ピアフとシェファー=ヴィオレッタとは、「小さくて華奢でこわれやすくて剛くて哀れ」という以上の平行関係は示されてません。

シェファーは案の定第一声から、音色も発声もフレージングもまるで異質。第一こっちが一瞬ツンボになったかと思うくらい、まるでプロジェクションがない小さな声で、ドンナ・アンナ以上に不都合感は露わです。1幕のアリア最後の変ホも出してません。
でも彼女の歌唱には独特の有無を言わせぬ説得力があります。情感を爆発させることなく、か細い声で坦々と、でも芯の強さと緊張感は途切れることなく音符を確実に音にして行くんですわ。じわじわと押し寄せる感動。
衣装も写真は1幕のですけど、2幕は半袖・ミニのワンピース、3幕は下着でか細さを強調してまして、例えば、2幕の「Amami Alfredo…」を裸足の彼女が(オーレンの指揮共々)抑制され切ったダイナミックで、静かに踏み出しながら歌う様は、忘れがたい印象を残すんですよね。

いや本気で彼女のイゾルデ2幕、聞いてみたくなりました。

ヴァン・ダムはさすがにお年のようで、「ルイーズ」の父親役なら仏語ディクションの立派さもあってまだまだ行けたけど、ジェルモンとなるとちょっと辛い。2幕のカバレッタは勿論カット。

セッコは一応合格点というところ。

意外なことにオーレンの指揮が大変ユニークで、この公演の成功に大きく寄与してます。
テンポがのろく、ダイナミックも抑えてます。何せオケを抑えようとする余り、しばしば体を屈め込み、後ろ姿がピットの壁向こうに隠れてしまうくらい。彼の普段の興奮煽り立てる「激棒」とは正反対です。シェファーの声が小さいからダイナミックは抑えてるのかも知れないにしても、このテンポ設定は驚きで、2幕のアリアでヴァン・ダムが前にのめり出てしまうくらい遅い。彼ほどの秀逸なオペラ職人には意外なことで、これは意識的選択と思います。
彼の棒の下で、「トラヴィアータ」はロマンティックな激情の飛翔ではなく、陰鬱な埋葬行進曲のような趣を帯び、シェファーの歌唱共々「シモン」さえ連想させるいぶし銀のような重厚な悲劇みたいに響いてくるんですよね。

要するにこの上演の主は演出家のマルターラーで、シェファーとオーレンの選択もこの演出と切り離しては考えられないと思います。
小生は観てませんがプレミエ時に振ったカンブルランものろいテンポだったそうで、オーレンのテンポ・ダイナミック設定が彼一人の判断なのか、演出家と相談した結果なのかは知りませんが、オーレンの意外な一面に触れた思い。勿論オーレンのことですから、最終的な部分で南欧的躍動は欠けてませんしね。

マルターラーの基本的考えは、ピアフのようなか細いけれど剛い女性が、社会に哀れに押しつぶされていく様を仮借なく示そうというもので、最初から死の予感に満たされています。
「旧東欧建築を思わせる」殺風景で悪趣味な色彩感の舞台装置、意味不明の戯画的ジェスチャー、挑発的ユーモアなど、マルターラーの常套手段は今回も繰り返されていますけど、個人的にはその点をあげつらう気にはならないんですよね。キャリア末期の「化け物」になりかけた哀れなピアフ埋葬曲みたいな陰気なドラマだけど、「トラヴィアータ」が荘重かつ陰鬱な、音楽による感動的悲劇であることを再確認させられる上演は、そういつも出くわすわけではないですから。

小生もイタ・オペ演奏の「italianità」にはコダワリある方ですけど、今回はそういうことは何だかどうでもよくなって聴いちゃいました。
by 助六 (2007-10-17 11:49) 

keyaki

助六さん、今シーズンも再演なんですか、ということは評判がいいということですね。
のろいテンポのズンチャッチャ、どんなんでしょうね。
イタオペではない椿姫.....興味わいてきました。
助六さんをそこまで虜にした「トラヴィアータ」とあっては、聞かないわけにはいきませんね。
カンブルラン指揮のプレミエのですが、放送を聞いてみます。
by keyaki (2007-10-18 00:56) 

keyaki

助六さん、ザザーっと聞いた感じでは、この「トラヴィアータ」は、聞くだけだと、かなり妙に感じますね。たとえば、歌ではない部分が音楽に溶け込んでなくて、なんて言ったらいいんでしょう.....突然、イタリア語会話教室に紛れ込んだ感じです。
確かにテンポ遅すぎで、1幕、3幕ともに普通は30分以内のところが40分かかってます。もちろんライブですから間に拍手が入っているからだろう...と思うかも知れませんが、拍手が入っても指揮者は、ほとんど音楽を止めてないんですよね。しかもその拍手も、オズオズ、お決まりだから、やっぱりしなくちゃね、という感じの拍手です。

たとえば、E strano!....からFollie! まで、クライバー指揮コトルバシュのだと3.36、シェーファーは、7分とちょっと...こうなってくると、これが母国語だとどう感じるのかな....と思いました。早口の人、ゆっくり喋る人いろいろですが、ものには限度があると思うんですけど....
遅すぎるので、音だけ聞くと、シェーファーのtとかsが外国語っぽくて、ちょっと気になります....
シェーファー仕様の「トラヴィアータ」ということですが、数年前のベルリンのより、私は好きです、こういう歌い方の方がはえるというか、本領発揮ということなんでしょうか。
カウフマンのアルフレッドは調子が悪かったのか、あんま良くないです。まあ、彼も音だけで聞くのははじめてなんですけど、こんな声なの....でした。
by keyaki (2007-10-18 09:40) 

助六

小生の拙い感想が、keyakiさんの好奇心掻きたてちゃったみたいで失礼しました。当方は光栄なんですが(笑)。

カンブルランの方が、オーレンより異質感強そうなのは容易に想像つきますよね。周りに両方聞いた人がまだいないので、今後比較感想が入ってくるのを待ちたいと思います。

逆に言えば、モルチエの片腕のカンブルランの方が、この上演の意図をよりラディカルに体現してるかも知れませんけどね。

>歌ではない部分が音楽に溶け込んでなくて

これは私はむしろ逆の印象を受けました。

個人的には「トラヴィアータ」の日常的上演で、華麗な旋律の飛翔と躍動が強調され、パルランドに類する部分がおざなりに何となく流される結果、劇音楽の統一的流れが途切れがちになると感じることが多く、それに対して今回は音楽の持続的流れが終始強い緊張感を持って維持されてると感じました。
これはイタ・オペのイディオムに強いオーレンのウデと、演技含めてドラマの内的緊張に敏感なシェファーの力と思います。

>コトルバシュのだと3.36、シェーファーは、7分とちょっと...

2節目の省略なしに、この違いなら凄まじいですね。
クライバーは確かにテンポ速かったけど、今回心理的にはこの数字ほどの失速感は受けなかったんですけどね。

カウフマンはシューベルトのオペラで聴いただけですけど、かなりバリトンっぽい声ですよね。

今回の再演はプレミエ前から予定されてたものです。まあ「トラヴィアータ」打てば必ず満員ですものね。プレミエ時の不評のせいか、切符は前回よりラクと聞いてます。

今日18日、「トラヴィアータ」再演2日目は劇場ストで中止。公務員優遇年金制度改革反対ストの一環です。コメディー・フランセーズ、オペラ座など国立劇場常勤職員は、電力・ガス公社、国鉄、都市公共交通職員と共に、年金の受給資格を得る積み立て期間が、一般の40年に対して、37年半と優遇されてるんですよね。
by 助六 (2007-10-19 09:13) 

keyaki

助六さん、ご指摘の通りでした。気になったので、ちゃんと確認しました。
>2節目の省略なしに、この違いなら凄まじいですね。

クライバーのは、繰り返しなしでした。そうすると約1分ってとこですね。
だいたい参考にしたのが、超早いのなのかも、ですね。
「トラヴィアータ」のカットとかよく知らないのですが、2幕はいろいろあるようですから比較できないとして、3幕が、クライバー25分、パリのが37分です。どこかカットしているのかしら?
演出第一であれば、演出家がテンポを決めたということでしょうね。
昔、ストレーレルが、ショルティにちゃんとテンポを確認して、リハーサルしたのに、ショルティが来て、話し合って決めたテンポをわざと変えたので、演出はイチからやり直しだった....とかで、ショルティのことを怒ってましたネ。
だから、指揮者が変わってもテンポは守らなければならないってことですよね。

カウフマンは、チューリッヒの秘蔵っ子?で、DVDもいろいろありますが、今まで感じたことはありませんが、このアルフレードは、なんか咽にひっかかっているような、変な声なんですよ。シェーファーの声とは合わないんじゃないかな。

まだ、ストがあるってうらやましいですね。
日本では、ストはもう過去のことのようです。私の若い頃はスト全盛期だったんですけど....
by keyaki (2007-10-19 17:54) 

サンフランシスコ人

サンフランシスコでクリスティーネ・シェーファーを観ています。
by サンフランシスコ人 (2008-02-05 05:32) 

keyaki

サンフランシスコ人さん、シェーファーは、歌曲の評価が高く、日本でも人気があるようです。日本でもコンサートで来日していますが、オペラでは来てないんじゃないかと思います。
by keyaki (2008-02-06 01:45) 

M. F.

ところでMarthalerでもクリストフのほうの《椿姫》(ご迷惑かも知れないので、こちらの古いエントリのほうに)、UPされている最後の場面とウェブ上で手に入る資料を一通りかき集めて見たのち、考え込んでしまいました.と言うのも、通常メロドラマだと思われている多くの要素(出遭いに始まりヴィオレッタの自己破滅的な選択と裏切り、アルフレードの彼女への侮辱…)が「すべて」演劇的な契機として扱われており、それがヴェルディの俄かには信じがたい(あるいは信じたくない?)ほど残忍な一側面を露呈しているからです.

たとえば最後のアルフレードとの再会(ご存じのとおり、これは小デュマの原作からのヴェルディの改変点です)はヴィオレッタにとって、最後の極めて危険な恋愛遊戯—というより「賭け」—への跳躍の起点となり、愛の二重唱でユニゾンに達した瞬間には、ふたりの間にある「軋轢が、場に愛のエネルギーを充満させ」、(死への)恐怖が快楽へ転じてゆく...という異常な事態が起こっています.

クリストフ・マルターラーは極めて独特な芝居をやる人で、無意味な動作を明確に意味づけせぬまま大量に突っ込み続け、そこで蓄積されたエネルギーが時として噴出してくるといいますが(チェーホフ『三人姉妹』'97)、私は見たことがないのでドイツ演劇界での高評にも半信半疑でした.しかし私は最初から順に見てこの場面に至り、驚嘆してしまいました.こんな事をやれる人は滅多にいません(尤も最初の私の反応はもっと直接的なもので、カウフマンの歌うparigi o cara...の箇所に来た瞬間、突然涙がぼろぼろと流れて止まらなくなってしまう、というナサケナイものだったのですが).逆に言えば一見全く「非常識」なテンポと音楽づくりこそが鍵で、おそらくセッコ&オーレンではそれは起こらなかったんじゃないでしょうか?

とは言え、やっぱり私にとって魅力的なのは音楽です.たとえば乾杯の場面は単に遅いのみならず、その遅いテンポよりも遙かにゆっくり時間が流れるように聞こえ、ほとんど滞留するような感覚を生み出すに至っています.このレベルの音響的想像力に満ちた仕事に接すると音楽解釈や歌手選択が全く「常識」外れだとかそんな事はどうでも良くなってしまい、《椿姫》の非常に優れた上演に出会ったという感触を持っています.

...ま、そういう感想もある、くらいに思っていただければ….
by M. F. (2009-02-04 02:19) 

M. F.

(以降は余計な注釈ですが、)

もっともモーツァルトならともかく、19世紀ロマン主義のヴェルディ・オペラを、抽象化された純粋演劇と見るのはさすがにナンセンスです.そこのところを、マルターラーの演出チームは文学的解釈と非常に巧みに折衷することで、説得力を与えることに成功していると思います.

まず彼らの《椿姫》解釈の前提はパトリス・シェロー演出版のアルバン・ベルク《ルル》(1979、同じガルニエ宮で上演)とある意味パラレルで、ごく表面的なレベルで言えば様々なイメージ借用からアルフレードの造型(シェーン博士から、その残忍さへの嗜好を差っ引いたような感じ)に至るまで、これに目配せしている節があります.(そもそも主演のシェーファー自身が、ルルとヴィオレッタをほとんど同じに考えているらしい?ことも見逃せません.)

シェローの演出チームは《ルル》(〜1935作曲)を、両大戦間の全体主義勃興の時代に移しました(これは謂わば、第二帝政期パリをボードレールを通して研究したベンヤミン=アドルノ的の視線を逆向きに辿る操作です).尤も彼らが思わせ振りなのは美術面までで(リシャール・ペドゥッツィの作った舞台装置は翳が差したように青暗く、最後の第3幕第2場は、ベルクのト書きを堂々と無視して公衆便所なのです)実際の舞台は全く歌手の演劇的力学だけでものを作っているので、そのパラレリスムを探るには少し文学的解釈を敷衍しなければなりません.

つまり、社会の最混乱期に生も死もごちゃごちゃになったような混沌の中から、詩人的な想像力によって呼び出される<非在の>少女的形象がルルだ…と思うと、先の時代設定のシフト(19世紀末ロンドンから両大戦間パリへ)はヴェデキント=ベルクのテクスト解釈の点からも正当化されます(あまりそういう事ばかりやっても意味がないですが).ところが正にこれは、マルターラー版ヴィオレッタの設定そのもので、細かく見れば見るほど、詩的なイメージが美術や身体動作の中に鏤められ続けます.最後がほとんど祭儀的なヴィオレッタの<埋葬>となって終わるのは、演劇的というより若干文学的な論理から来る落とし前の付け方で、そういう意味では必然的だと思います.
by M. F. (2009-02-04 02:23) 

keyaki

M. F.さん
>Marthaler
同じ名前なんですよね。私も最初は、あの変わった演出をするマルターラー?...どうなるんだろう....なんて心配しました。(笑

私の場合は、最初に音だけで聞きましたが、シェーファーもカウフマンも間の抜けた歌唱にしか聞こえませんでした。同じシェーファーのマリリン・モンロー版の椿姫の時も(もちろん音声だけ)、妙にテンポが遅い....と思いましたから、演出のせいではなく、シェーファーのテンポなのではないかと思いましたし、彼女にとっては、伝統的歌唱なんてなんの意味もないのかとも思いました。
いずれにしろ、これは、シェーファーあっての演出だとおもいますので、再演のアルフレードが、セッコであっても、指揮者が変わっていても、プレミエと遜色はなかったのではないかと思います。

実際にプレミエを見た方のレポートによれば、まったく盛り上がりのない演奏、歌唱で、カーテンコールも醒めたものだったそうです。こういう演出は、ある程度予備知識がないと、なかなか感動するまでには至らないのではないかと思いました。
エディット・ピアフ物語だと知って見れば、二人の歌唱が、魅力的ではなく心に響かないものであっても、なにしろ、見た目もこの役にピッタリの二人、最後のアルフレードは上の段にボーッと立っているだけで、一人で死んでいくヴィオレッタ..... M. F. さんの解説を読ませて頂いて、私には難しすぎますが、ちょっとは理解できたような気もします。

>ウェブ上で手に入る資料を一通りかき集めて見た
Youtubeにかなりアップされているようですが、それをご覧になったんですか。
合唱団にへんてこりんな動きをさせるのは、Marthaler流なんでしょうか。ソリストに妙な動きをさせるボブよりはいいですけど。


by keyaki (2009-02-04 15:51) 

M. F.

済みません、先ほどのコメントに書いたことの3/4(1つめの半分、2つめ全部)は忘れてください(爆)

改めて最初から通して見ると、全然印象は違いますねえ...!あれほど重要だと思われた個々の意味作用の荷重が、ほとんどどうでもよく思われてきました.実際ここでは非常に多岐に亘るレベルでの「非同質的な反復」が重要な機能を担い、それが最終的に時間性の消失にすら至る感覚があります.背格好の違う人が3人並ぶとか、歌ったり無言だったりしながらしつこく振り返るような動作から、長い時間スパンでは、第1幕末尾でヴィオレッタのドゥーブルをドゥフォールがさっさと連れて行ってしまったりもするし、結末の廃棄=返却される身体のイメージは既に第2幕に用意されている.

意味作用の経時的な質的変化、というのはそれでも重要そうですけれど、この論考

http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~the0372/leistung/06-11Sannin.htm

で述べられている

> つまり各自のコミカルな動き、あるいは不自然な反応や「無」反応の一つひとつが、単なる人形ぶりやコミックという表層的な効果を意図したのではなく、あるひとつの原則から引き出されていることに、観客が自ずから気がつく

というのと正に同じ感触があります.

曾て我々は、舞台装置や衣装の豪奢な意味の乱反射が不可欠だと思われたシェロー劇が'80年代に至って極度の抽象化を見る…という事態を見ているわけですが(…ま、私はヴィデオで《ホフマン物語》や《ルーチョ・シッラ》を見ただけですけれど…)、マルターラーにも出来るんじゃないかな?アンナ・フィブロックがあれほど細部まで丹精込めて作っている美術がこの程度にしか機能していない、というのも驚きですけれど、意味作用の積載荷重は良い傾向ではないのも確かなので.


それととても面白く思ったのは、マルターラーが《椿姫》が所謂<悲劇>であるという観念から逃れている点です.実際この時点でのヴェルディの発想はともかく、音楽にはもっとコミカルな要素が散見されるんですよね.第2幕第1場のヴィオレッタと父ジェルモンの対話を吹き出すくらい可笑しい劇中芝居になってしまっているのはさすがにマルターラー流の異化でしょうが、考えてみればヴェルディほどの作曲家が<大悲劇>を書くと思い込むだなんて、随分見くびっていたものだ!...と思います.ところが最後にやって来る感情は、その正反対なんですよね.

実のところシェーファーは、芸術表現における<笑い>というものの構造に非常に自覚的な人なんです.それを見事に示していたのがマーラー第4の歌唱で、一見楽譜指示を無視してちょっと鬼気迫るような感じであるにも関わらず感銘深いものだったんですが、色々調べてみると深い文学的根拠がある.

ここにも実に様々な笑いがありますが、たとえば(第2幕第2場で)ドゥフォールと一緒に入ってきた時の彼女は最初おどけた感傷に満ちて歌い出し、それをこの一連のシークエンスを通じて徐々に切迫感に反転させる…という離れ業をやっている(ちなみにたとえばここがカンブルランとオーレンの力量の差で、前者だと「漸次的な質的変化・反転を伴う反復」なのが、後者だとただ同じ事が繰り返されるだけになっています.《カーチャ》でカンブルランがマルターラーの舞台にどういう音楽をつけるかを詳しく見た(ただし録画で)ことがありまして、たとえば舞台上で矮小化の回路が作動している時に広大なヤナーチェクの音楽をつけ、音楽—舞台という遠近法を作る...という事をやっていたのを思い出します.これほどマニアックな仕事をする指揮者はまず他に居ないと思います).

余計な与太話でした.
by M. F. (2009-02-05 23:59) 

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