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モンセラート・カバリエ(1):アヴェマリア [RRと女声歌手]

 モンセラート・カバリエ Montserrat Caballéが、注目され、世界の歌劇場に立つようになるのは、32歳と意外に遅いのですが、それまでの苦労話をちょっとご紹介します。


 カバリエは、1933年4月12日、バルセロナで生まれました。父が内戦で負傷後、病弱になったこともあり、貧しい家庭でしたが、両親は、レコードを買ったり、コンサートに行くためにあらゆる節約をするほどのクラシック愛好家でした。8歳の頃から、音楽、ピアノとかソルフェージュを習いに、両親の友人のところにレッスンに通っていました。オペラ歌手になろうと決心したのは、家族の助けになるような収入が得られるのではないかと考えたからだそうです。そこで、学費を払ってくれる人をさがして、バルセロナの大富豪ベルとランド氏の援助を受けて、バルセロナ音楽院に入学します。
 1954年、21歳で卒業。直後に近郊の小さな町レウスでプロデビューを果たします。オペラの本場イタリアで、歌手としての第一歩をと思い、なんどもオーディションを受けますが、ことごとく断られ、オペラ歌手には向いてない、とまで言われたこともあり、また、その頃は、スマートで美人(本人談:本当よ)だったので、なんとかすれば、なんとかなるかも...とか自尊心を傷つけられたり、失望してスペインに帰ろうとした時、スイスのバーゼルに行ってみたらと助言されます。
 1956年、やっとのことでバーゼル歌劇場との3年契約にこぎつけたのです。魔笛の第三侍女でデビュー。最初の大役は、代役で歌った《ボエーム》のミミでした。バーゼルの3年間で習得したレパートリーは、主にドイツものでした。
 1959年ブレーメンに移り、更にレパートリーを増やし、主役から端役までなんでもこなしました。1959年ウィーンでサロメを歌い好評のデビューを飾り、1960年には、スカラ座で《パルジファル》の花の乙女でデビューしますが、その後は、忙しいだけで鳴かずかず飛ばず。バルセロナ、メキシコ、リスボンでも歌いましたが、この時期、約10年間は、たいした役でもないものばかりで、非常に辛く、苦しい下積み生活でした。すずめの涙ほどの報酬のためにがむしゃらに働きましたが、自信を失い、失望し、歌手の道を諦めてスペインに帰ろうとまで思ったこともあるそうです。肉体的にも精神的にも過酷な時代でしたが、この地方劇場専属時代は、節約して、お手本として敬愛していた歌手、デラ・カーサとかシュワルツコップとかを観に行くという素晴しい経験ができた一時期でもあったとか.........
 そして、ついに1965年、カーネギーホールで、代役で歌った演奏会形式の《ルクレツィア・ボルジア》の成功で、一夜にして未来が開け、今まででは考えられなかった良い条件の出演交渉や契約が無数にくるようになり、国際的な活躍がはじまることになったのです。.......「スカラ座の名歌手たち」「ブラヴォー、ディーヴァ」参照


Glyndebourne Festival Opera: Gala Evening♪ビデオクリップを見るには、QuickTime7以上が必要です。ウィンドウズの方はこちらからどうぞ→http://www.apple.com/jp/quicktime/download/win.html
上の写真をクリックするとビデオクリップが見られます。
1992年7月24日、グラインドボーン新劇場建築資金調達のための特別ガラコンサートで、アーティストたちは、無料で出演しています。このコンサートは、BBCテレビの他,多くの国に生中継されました。
♪写真上:カバリエは、《オテロ》の柳の歌〜アヴェ・マリアを歌っていますが、全部で20分近くありますので、ゼッフィレッリじゃありませんが、前半の「柳の歌」は、割愛させていただきました。
♪写真下:ライモンディとシンシア・ハイモンの二重唱もお楽しみ下さい。
★カバリエは、1965年マルシャリンで、ライモンディは1969年にドンジョヴァンニを歌っています。

このガラコンサートには、チャールズ皇太子がご出席ですが、カミラ夫人同伴です........
関連記事:
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岡村喬生もイタリアではなかなか仕事が得られず、ドイツの地方劇場の専属になったそうです


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コメント 8

euridice

岡村喬生の本で読んだので、今のことはわかりませんが、人気歌手でなくても、オペラ歌手として生活が可能なのはドイツ語圏だったみたいですね。氏もイタリアで勉強しコンクールで優勝したものの、イタリアやスペインでは仕事を得られず、悩んでいたところ、オーストリア、リンツの専属歌手の職を得ることができて、オペラ歌手としてやっていくことが可能になったということです。その後もドイツの北部キール、その後、ケルンの専属バス歌手という安定した職を得ています。

カバリエなどは、ついはじめからスター歌手だと思ってしまうし、サロメとかドイツ物を歌っているのを知って、違和感を感じたりしていましたが、キャリアがブレイクする前は、ドイツ語圏で専属歌手生活を送っていたということで、とっても納得です。

>すずめの涙ほどの報酬
ペーター・ホフマンのオペラ歌手初仕事、リューベックとの専属契約前、タミーノの単発契約が、一公演700マルク+交通費(1972年)だったようです。

岡村氏の本によれば、第一バス歌手としての専属契約の月給は、約5万円(3500シリング、1966年)だったそうです。

ついでに私、1970年初仕事、月給4万円だったような気がします^^; トイレ&バス付き三部屋(ベッド&家具付き)&三食付きだった・・ 変な仕事でしょ?!^^;;;
by euridice (2007-04-24 08:30) 

Bowles

彼女の伝記だったか、それを元にしたドキュメントでだったかさだかではありませんが、バーゼルにいた当時も生活は苦しかったようですね、とても歌手だけでは喰えない...。あのハンロの工場で仕事をしていたそうです。
by Bowles (2007-04-24 10:05) 

euridice

>あのハンロの工場
すみません、知りませんでしたが、下着の縫製工場ってことですか?
by euridice (2007-04-24 10:35) 

名前の由来は、バルセロナ郊外のモンセラート修道院から来ているそうですね。生まれた直後に身体が黒くなって、長く持たないんじゃないかとなり、両親がモンセラート修道院の黒いマリアに祈って回復したので、その名前をつけたというようなことを、CDの解説で読んだ記憶があります。どのCDか忘れちゃいましたが。
by (2007-04-25 01:45) 

euridice

>名前の由来
gon さん、興味深いお話、ありがとうございます。
スペイン人女性にこの名前の人けっこういます。はじめて知ったとき変わった名前だと思いました。ちなみに、はじめてのモンセラートさんは、スペイン人の素敵な修道女でした。なるほど奇跡のマリア像のあるモンセラート修道院が由来なんですね。ワーグナーの「パルジファル」の舞台モンサルヴァートは、モンセラートがモデルだったという説があるとか・・・
by euridice (2007-04-25 08:33) 

keyaki

euridiceさん、まかない付きで、しかもトイレ&バス付き三部屋(ベッド&家具付き)で、4万円って、それは破格の待遇ですよ。
多分、当時は大卒で3万ちょっとじゃないですか。
カバリエは芽が出るのに10年かかってますから遅い方ですよね。まあ、普通は5年が限度で、5年のうちに世間様から注目されないと、あとは「継続は力なり」の歌手ということなんでしょうね。
ギャラが少ない歌手ほど、公演数をこなさないと生活できないのに、そのお仕事のオファーが来ないという、ジレンマですが、世の中こういうことは公平ではないんですよね。
by keyaki (2007-04-25 16:10) 

keyaki

Bowlesさん、歌手だけでは喰えない....って、日本人歌手なんかは、ほとんど講師をしたり、どっちが本業かわからない人が多いんでしょうね。

バーゼルとかドイツ地方劇場の専属時代は、勉強させてもらっているということで、お給料も安くて、有名歌手の公演を見に行くには、バイトをしなければならなっかたということですね。
by keyaki (2007-04-25 16:25) 

keyaki

gonさん、カバリエの娘さんはたしか歌手で、お母さんと同じ名前なんですよね。そういう由来のある名前なので、娘にも..ということなんですね。
by keyaki (2007-04-25 16:28) 

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