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《ランメルモールのルチア》家庭教師ライモンド:中くらいの役(3) [ランメルモールのルチア]

バス歌手が歌う、小さい役より、ちょっと大きい、中くらいの役シリーズ第3
ドニゼッティの《ランメルモールのルチア》の家庭教師ライモンド・ビデベントもその一つでしょう。このオペラは、ドニゼッティの作品の中で、最も有名で、舞台にかけられることも一番多いようです。
ライモンディは、ルドルフ・ビングにNYメトで歌って欲しいと誘われていましたが、1970年にメトロポリタン歌劇場にデビューすることになります。
1970年は僕にとって幸運の年でした。ミラノのスカラ座とニューヨークのメトロポリタン歌劇場のシーズン開幕で歌うことができたんですから....スカラ座の名歌手たちより抜粋
シーズン開幕には《エルナーニ》でシルヴァを歌い、続けて《ノルマ》のオロヴェーゾ、更に続けて《ランメルモールのルチア》にも出演しました。

Metropolitan Opera House
October 15,24,28,31, 1970

LUCIA DI LAMMERMOOR

Lucia...............Renata Scotto
Edgardo..........Luciano Pavarotti
Enrico..............Mario Sereni
Raimondo........Ruggero Raimondi
Normanno.......Rod MacWherter
Alisa................Carlotta Ordassy
Arturo..............Leo Goeke

Conductor........Carlo Franci
Production........M. Wallmann
Stage Director..Fabrizio Melano
Designer...........Attilio Colonnello
Choreographer..Alicia Markova
 ルチアが、泣く泣く結婚契約書に署名したとたん、エドガルド現れる。全員一瞬固まって、ここでこのオペラの聴かせどころ最頂点、六重唱が歌われる。エドガルドはルチアを連れて行こうとするが、結婚契約書の署名を見せられ、ルチアの心変わりを呪い、愛の徴の指輪を投げつける。彼の怒りは頂点に達し、放心状態のルチアの差し出す指輪をひったくり、床に投げつけ、足で蹴っ飛ばす。剣を持って、ルチアとその血族を呪い、結婚式に集まった人々の間をわって退場する。
※上のMP3は、有名な6重唱の後、エドガルド(パヴァロッティ)が、怒りまくる場面、ライモンダは、pace,paceとなだめ役です。

第3幕12番♪MP3♪: 結婚の祝宴に招かれた大勢の客が、うたい騒いでいる。そこにライモンドが登場して、ルチアが発狂して新郎のアルトゥーロを剣で刺したと告げる。
■ 1970年(28歳)メトデビュー:
・1970年9月14,19,24日エルナーニ(シルヴァ)シッパース指揮 ベルゴンツィ、ミルンズ、アーロヨ
・1970年9月28日 10月3日ノルマ(オロヴェーゾ)ボニング指揮 サザランド、ホーン、ベルゴンツィ
・1970年10月15,24,28日ランメルモールのルチア(ライモンド)
参考:《ランメルモールのルチア》公演記録


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助六

エントリ主題と無関係のコメントで申し訳ありませんが、パリ・オペラ座が出してる無料雑誌に「コジ」再演を機にしたRRのインタヴューが載ってます。「コジ」の作品解釈やアルフォンソの人物解釈が内容で、格別面白い話はありませんが、眼を引くのは「無人島の一品」の質問があることです。

クイズ: RRが無人島に持ってく一品は何だと思います?
ある本なのですが、私にはちょっと意外でしたが、思いつく人もいるかも知れないものです。他にアントナッチとポラスキも答えてます。女性はやはり現実的…かな。
by 助六 (2006-09-27 07:06) 

keyaki

興味津々です。
無人島に一冊持って行くとしたら、、という質問ではなくて、何を持っていくかという質問に、「本」という答えだったわけですね。誰でも読んだことのある本ですか?
聖書では、ありふれているし、スコアというのも、仕事から離れたいだろうし、海はとても好きなようですけど、海洋学関係の本、とか、ロビンソン・クルーソーってなことはないでしょうし、、、、
>意外でしたが、思いつく人もいるかも知れないものです
意外な、、、、なんだろ、なんだろ、、、、

>女性はやはり現実的…かな
日焼け止めとかかしら。自分が飼っているペットとか。
by keyaki (2006-09-27 10:42) 

助六

うは、さすがに一発で当てられてしまいましたね。その「聖書」です。

RR: 「聖書を持っていきます。私にとっては尽きることのない書物です。無人島暮らしと孤独を忍ぶのを可能にしてくれる書物は、これを措いてありません。キリストの言葉は常に私を助けてくれましたし、今も助けてくれています。「己自身の如く隣人を愛せよ」という言葉は素晴らしいものです。文化や宗教の溝を乗り越える普遍的な宇宙原理を示しています。次のような、まったく単純な機械的法則に集約できます。憎しみは憎しみを生み、愛に輝く者は愛を受ける、と。

RRは伝統的カトリックに近いのか、世俗化著しい一般的イタリア人でも結構聖書を読んだりするのか、RRが「赤いブルジョワ都市」ボローニャ出身であることとはどう関係するのか、とか疑問・想像が拡がります。

アントナッチは「私のお家」、ポラスキは「iPodとナイフと本数冊、携帯とパソコンはゴメン」というものでした。
by 助六 (2006-09-28 08:40) 

keyaki

助六 さん、
やっぱり...という気持ちと、へぇーという気持ちです。

アントナッチはかわいい答えですね。
今の若い人だったら、反対に携帯だけは持って行くという回答が多いかもしれませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ライモンディが、ボローニャと信仰についてインタビューで答えていますので、転載します。

Q:第二次世界大戦が終わったとき、4才にもなっていませんでしたね。戦後のイタリアで成長するというのはどんなものでしたか。

RR:けっこう大変でした。一度爆撃されたのを覚えています。私達は防空壕にいたのですが、家に爆弾が落ちました。とても怖かったのを覚えています。その時、2才でした。両親が逃亡中のパルチザンをかくまっていたのも覚えています。国防軍(Wehrmacht)の司令官が2階に宿泊してましたから、問題でした。そのパルチザンは2日滞在しましたが、家族はいつも小声で話していました。両親はロンドンの放送を聞いていました。ベートーベンの運命のダダダダーンが鳴ってました。ポーランド兵がボローニャに進行した日のことははっきり覚えています。逃亡を図ったファシストに銃口を突き付けていました。父は白いシーツをテラスに掛けました。
1948年の白色革命を思い出します。Togliattiの暗殺計画のあと、コミュニストが権力を握ろうと企てたときでした。それから、Bartali が ツール・ド・フランス で勝ったことが、見方によっては、イタリアを革命から救ったのです。ボローニャ一番の通りに大きなテラスVia Rizzoliがありましたが、警察の装甲車がデモ隊に向って並び、群集に発砲したのを、今でも覚えています。大変な時代でした。しかし、同時に、イタリアの将来に大きな希望を持っていて、戦後、援助を求めて渡米したAlcide de Gasperi に絶大な信頼をおいていました。
50年代のわが町はすばらしいところでした。朝の4時か5時までレストランは開いていて、みんな寝ないでおしゃべりしていました。春から夏の間は、通りにはいつも人がいて、町に住んでいるのではなく、ボローニャという大家族の中で暮らしているという感じでした。父は自分の店で働いていました。私は郊外に住んでいた祖母を訪ねるのがとっても好きでした。それから、それが最初の劇場経験でしたが、 Bellettiの「愛の妙薬」を聞いたように思いますが、もしかしたら、ボリス・クリストフだったかもしれません。
その頃は、まだいわゆる人間的な生活がありました。人情があつかった。けれど、1977年か78年の後だと思いますが、何もかも突然変わってしまいました。イタリア赤色旅団ができて、全てが変わりました。あらゆるものが極めて冷たくなりました。人は外に出るのを恐れました。私も、よく知っている場所に暮らしているという感覚を失いました。そこにあるのはもはや自分のサイズに合わない、大きすぎる町でした。郊外の田舎にあった祖母の家は今では都会にのみ込まれてしまいました。全ての雰囲気がひどく変わってしまったものですから、私ももはやボローニャ人とは感じられません。

Q:終戦直後のイタリアにおいて、カトリシズムとマルキシズムのイデオロギー的相違を一致させようとする計画がありました。ボローニャはイタリア共産主義の中心地ですが、ご家庭は政治的な雰囲気でしたか。

RR:そうでしたが、それは父の出身が宗教的背景を持っていたという意味においてと言うことです。一人のおじは、司教でしたし、おばは修道院長でした。親戚にも司祭が数名いました。このような宗教的背景が理由で、父はキリスト教民主党の党員になりました。付け加えておくべきでしょうが、父は決して政治に深くかかわったわけではありませんでした。思い返すに、このことが、私自身も政治にかかわることがなかった理由かもしれません。そういう風に私は育てられました。私の家庭は、実際政治に関心がなかったのです。宗教的な感覚は非常に強かったですから、ローマ教皇に忠実であるべきだということになります。このことは、別に私の家庭が教会の神学を強力に信じていたという意味ではありません。父は単純な信仰の持ち主でした。なぜかを問うことのない強い信仰を持っていました。疑うことなく信じていただけです。
ピオ神父が両親の代父でした。9才の時、はじめて Pietrelcinaへ行きました。そのときのミサをまだ覚えています。約3時間かかりました。4時から7時までのミサに間に合うためには、朝3時に起きなければなりませんでした。ピオ神父の目が非常に印象的だったのを覚えています。まるでX線のようだと思ったものです。彼の眼光は人の人格を貫くような感じがすると思います。廊下で母と一緒にピオ神父に会って、この聖なる人の祝福を受けたのを覚えています。4、50年前に見たものを時々思い出しますが、この会見は、今もなお非常に強い印象があります。彼は普通の人ではありませんでした。
by keyaki (2006-09-28 21:58) 

助六

ありがとうございます。これは本当に面白い。RRの精神的背景・イタリア社会について、当方の理解に一挙に奥行きが加わった気がします。
このインタヴューの前後部分等は、どこかにupされてるのでしょうか?
by 助六 (2006-09-29 07:11) 

keyaki

助六さん、
今は、舞台で演じることが楽しいようですから、それどころではないでしょうけど、引退したら、いろいろ書いて出版して欲しいです。これだけ話題の豊富な歌手はいないと思うんですけど。それにバスで、デビューから一貫して主役を張っている歌手ってそうそういませんし。

インタビュー全文はこちらです。
http://www.geocities.jp/cantante_espressiva/interviewzurigo.html
by keyaki (2006-09-29 15:41) 

にぃにぃ

>RRが無人島に持ってく一品は何?
→聖書。
私もとっても気になって、色々考えてみたんですが、やっぱり私も
>聖書では、ありふれているし、
と思ってしまいました。キリスト教圏でも現代では信仰心は薄れてきていると聞いていましたし。私にはちょっと意外な気がしました。
>ボローニャと信仰について
と、インタビュー全文を大変興味深く読ませていただきました。
多岐に渡る話題で、内容濃いですね。共感するところがいっぱいありました。
by にぃにぃ (2006-09-29 23:13) 

keyaki

にぃにぃさん
RRは、子供の頃から読書が好きで、大人になってからも読書は彼の重要な趣味だということですから、本というのは納得ですよね。信仰というよりは、聖書は、いろいろ考えさせられる本ということかしら。
そう、そう、子供の頃に「ママも本を読まなきゃだめだよ」なんて言っていたようですよ。
by keyaki (2006-09-30 13:47) 

サンフランシスコ人

http://sfopera.com/p/?mID=110&edID=289

『ランメルモールのルチア』のビューイング

Free Lucia di Lammermoor Simulcast

Fri. June 20, 8 pm
AT&T Park, 24 Willie Mays Plaza, San Francisco

by サンフランシスコ人 (2008-03-27 05:16) 

keyaki

サンフランシスコ人さん、これは、無料で劇場と同時中継ってやつですね。
日本だと、東京ドームで新国のオペラを中継するようなものでしょうが、無理でしょうね。
by keyaki (2008-03-27 23:10) 

サンフランシスコ人

「無料で劇場と同時中継ってやつですね」

サンフランシスコ・ジャイアンツ(地元の大リーグのチーム)とサンフランシスコ歌劇団が提携しています。


by サンフランシスコ人 (2008-03-28 01:28) 

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